2012/05/19(Sat)
マタイの福音書vol.32 『主よ、主よ。』と言う者-1
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
マタイの福音書を『7key truths、七つの鍵の真理』から見ています。
{1章、神の定め(幕屋)の真理
「インマヌエル(神、我らと共にいます)」から、私たちとともに住まわれる「幕屋」なるお方として御自身を現されました。
2章、安息の真理
幼子イエス様はヨセフとマリヤのもとで守られ、天の父の「全き安全、安息」の中でエジプトに滞在し、時満ちてエジプトから呼び戻されました。
3章、勝利の真理
バプテスマのヨハネは、神への全き服従により神から油注がれた預言者とされ、多くの人々が、何もない荒野で呼ばわる者、ヨハネのもとに集まってきました。
神は、油そそがれた者たちに勝利を与え、その、油そそがれた者に民は集まってくるのです。
4章、カルバリの真理
イエス様は、羊飼いとして病気で弱った羊、飢え渇いた羊、怪我した羊たちを癒し、健やかにし、空腹を満たし養っていったのです。
5~7章 支配の真理
そして5~7章の「山上の垂訓」に入っていきました。
「山上の垂訓」で教えられているのは、「天の御国」が一貫したテーマとなっているということです。
神が、私たちに「天の御国」を与えようとしておられることを、イエス様は山上の垂訓(説教)の中で繰り返し語られました。
「山上の垂訓(説教)」その中心テーマの「天の御国(神の支配)」から、神の支配の真理を私たちに啓示していたのです。}
いよいよ「山上の垂訓」の締めとなる箇所に入って参りました。
『主よ、主よ。』と言う者を二回に分けて紹介していきます。
21節「私に向かって『主よ。主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行うものが入るのです。」
22節、その日には、大勢の者がわたしに言うでしょう。
『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23節、しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
『わたしはあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
最後のたとえから衝撃的な教えが語られました。
私たちは『主よ、主よ。』と呼びかける事はないでしょうか。
癒しのための祈りや、各種の祈りの時に『主よ、主よ。』と呼びかける事も多々あります。
イエス様はどういう意味でこの事を語られたのでしょうか。
ここは、神の御心を行なう者、行なわない者に焦点を絞っての発言だったのです。
神の御心を行なうとは、神が定められた思い(真理)を受け止め行なう事。
神の御心を行なわないとは、自分の考えや、思い中心に判断し、生活する事、それは、御心に反する(敵対する)事なのです。
神の御心は、マタイの5~7章の「山上の垂訓(説教)」の中でくどいほど語られました。
5章では「心の貧しいもの」から「義の為に迫害されているもの」にまでも「天の御国はその人のものである」と教えられ、6章では「御国が来ますように」そして「神の国(天の御国)と神の義を求めなさい」と御国を祈り求める事を勧められました。
7章では、そこまで教えられた神の御心(神の定めた思い、真理)を行なう者となり、天の御国を得、御国に入る者となるようにと語られたのです。
「山上の垂訓(説教)」の最後にイエス様は、「不法をなす者ども」と語られました。
不法を行なう彼らも悪霊の追い出しや、色々な奇蹟としるしを行う事もできました。
旧約聖書の出エジプト記の中でモーセは、エジプトの王パロの前で十のしるし(災い)を行ないました。
それに対抗して魔術師たちは四つまでを行なう事ができました。
(現代でも日本国内において口寄せ、悪霊追い出しを行なっています。彼らが人の為、世の為に行なう事は全て不法です。)
不法とは、神が定められた真理を犯すことです。
十戒の第一番目には、神(神の子キリスト)以外のものを神としてはならない。
第二、偶像を造るな。
第三、それを拝み、それに仕えるな。と続きます。
不法を犯した罪に対して、神は罰を設けておられます。
私たちは「山上の垂訓(説教)」を通して見て、神が定められた事柄を守れない状況を肌身に感じ、挫折しそうになります。
ここで、私たちには、決して忘れてはならない事があります。
キリストにある者(救いに預かっている者)は、不法を犯し続けていたとしても、その不法(罪)に対しては、十字架で清算されています。
救いに預かっていない者は、その、各自が行なった不法の報いを身にまといつつ、キリストから離れ去らなければなりません。
救いに預かる者とは、マタイ7章24節
「わたしのこれらの言葉を聞いて、それを行なう者(御心を行なう者)はみな、岩(キリスト)の上に自分の家(安心して住まう所)を建てた賢い人に比べる事ができます。」
ここで、神が、私たちに安心、安全、平安を保障し、岩(キリスト)の上に自分の家(安心して住まう所)を建てた賢い人のたとえを「山上の垂訓」の最後の教えとして語られました。
キリストの上に住まう者。ここに救いに預かる者の報いを見る事ができます。
旧約聖書が書かれているヘブライ語で「住まい」という名詞はミシュカン(住むところ、幕屋)と言っていました。
「住む」という動詞はシャカン。
このシャカンの語源は、神の栄光を示すシェキナーからきていると言われています。
ここから「岩の上に自分の家を建てた賢い人」を見てみますと、
{岩(キリストという土台)の上に、神が臨在(シェキナー)する家(ミシュカン)を建てた賢い人}となります。
その神の臨在こそが救いに預かった賢い者たちを永遠に災いから守ってくださる報いなのです。
神の御心の中にいて、御心を行なう人は、津波のような洪水が押し寄せても、また、巨大な台風、ハリケーン等のような強風がその家(神の幕屋)に打ちつけても決して倒れる事はありません。
しかし、岩(キリスト)の土台にない者は、少々の洪水でも流され、また、風で吹き飛ばされて跡形も無くなってしまいます。
「山上の垂訓(説教)」はキリストを信じ、救われ、キリストを土台とした生活を送るように勧めておられるのです。
神の御心の第一は「人の中に住まう事」それは、幕屋の真理から来ています。
神が人の中に住まう時に、人の中には二番目の「神の安息(安息の真理)」が訪れます。
神の安息の中にいる人には、全ての必要のために、神が働くのです。
{You work and He can’t work. You rest and God can work.}
「あなたが働くと、神は働けない。あなたが休む時、神は働く。」
7key truthsを説いておられた故ロバート・ユーイン氏の口癖のような言葉だったそうです。
私たちが、この世の禍い(わざわい)から身を守ろうと努力するのではなく、神が人の中に住まい、また、その神の住まい「ミシュカン」の中で救いに預かっている者たちを、神の守りの中に永遠においてくださるのです。
次回は、救いに預かる者の、御心の行ない方を見ていく事にします。
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2012/05/12(Sat)
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マタイの福音書vol.31 「狭い門から入りなさい」-2
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
マタイ7章13~14節
13節「狭い門から入りなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者は多いのです。」
14節「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」
今回は、前回と同じ、マタイ7章13~15節の「狭い門から入りなさい」を違った角度から見てみましょう。
私たちの魂が、知性、感情、意思の三部構造からなっている事は承知されていると思います。
アダムとエバが食べた善悪を知る木の実から漂っていた、オーラのように伝わってくるもの「食べる(意思)によく、目に麗しく(感情)、賢くする(知性)に好ましかった」であり、この中に魂の欲が全て含まれていました。
その魂からの思い、欲が勝り、アダムとエバは罪を犯してしまいました。
神の御心を行なう事は、私たちの魂の思いに反する事ばかりなので御心は中々行なえないのが現状です。
神の御心に反するものには、私たちの魂を楽しませ、喜ばせるものが多く占めています。
私たちが生活している中で持つ趣味、レクリエーション、リラクゼーションなどもある程度は必要ですが、時には、御心を優先するために、私たちの欲に従う行動を切り捨てなければならない事もあります。
この狭い門から入る事は、神の御心中心の生活を求められている事なのです。
魂の中には、多くの自分(肉)を楽しませる滅びの門がたくさんあります。
一旦、キリストを信じている者には滅びは無縁ですが、滅びの門に身をゆだね続けている者は、後の、永遠の報いに大きな影響が出てきます。
そして、そこに身をゆだねている者が多い事も、神の悩みの種の一つなのです。
滅びに至る門は、その人自身の持つ魂を喜ばせる(肉と欲を満足させる)事であり、狭い門とは、神の御心を歩む事です。
指導者は、正しくその道を、教え導かなければなりません。
私たちは、指導者が、良い実か悪い実かを見分ける必要があるのです。
にせ預言者、にせ教師たちが二千年前同様に現代でもいます。
彼らは「各自がデボーションを持ち、私たちの心、良心の閃き思いに忠実に歩めばよい」というような惑わしや、他、様々な安易な「教えの風」「目新しい楽な教え」の惑わしをもたらす事でしょう。
神の細き御声か、私たちの魂にある良心からくる思いなのか。
神の御心か否か、細心の注意を払わなければなりません。
17節「良い木はみな、良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」
20節「こういうわけで、あなた方は、実によって彼らを見分ける事ができるのです。」
様々な教えがあります。それらの教えには必ず実が伴います。
賢くその実を見分けて、益にならない悪い教えなら排除し、良いものであるならば取り入れていくようにすべきでしょう。
第一コリント3章12~15節を見てみましょう。
12節「もし、誰かがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらでたてるなら、
13節、各人の働きは明瞭になります。
その日がそれを明らかにするのです。
というのは、その日は、火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
14節、もし誰かの建てた建物が残れば、その人は報いをうけます。
15節、もし誰かの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は火の中をくぐるようにして助かります。
私たちが神の御心、御教えに忠実に従い歩んでいるなら金、銀、宝石で私たちの中に神の宮を建てていく事になります。
しかし、御心ではなく、心の中で、「これは神の御心、御教えだ」と思い込み、肉なる思いで歩んでいるなら、私たちの中に建てている神の宮が、木、草、わらによるものである事が、新天新地の前での最後の審判(黙示録20章12節)で明らかになるのです。
最後の審判のひな型として今でも、毎年、イスラエルは秋口(9~10月頃)に新年を表すラッパの祭りから始まります。
十日目に贖罪の日(ヨムキプール)として一日断食を行います。
それから五日後、すなわちラッパの祭りから十五日目に仮庵の祭りが始まり七日間、木、草、枝等でこしらえた仮の住まいに寝泊りします。
{*ラッパの祭りは、主の恵みとさばきの時を告げる最後の預言の雨(後の雨)が世界に降る時です。
*贖罪の日(仮庵の日まで五日間。5=恵み)は、最後の艱難を表し、艱難の中においても神は恵みを持って民を最後まで憐れみ、守られ、救われます。
*仮庵の祭り(レビ23章34~43節を参照)の始まり(千年王国=新天新地直前の仮住まい)から八日目(永遠のはじまり)まで、火による捧げものを捧げ続けるのです。}
そこで仮庵の祭りでささげられる、火による捧げものを見ていきましょう。
全焼のいけにえと穀物の捧げものとは、全ったき献身を意味します。
和解のいけにえによって、神との永遠の和解を保障し、約束が与えられます。
そそぎの捧げものは、祭司として神にささげる香ばしい初穂の捧げものに、オリブ油により聖別され用いられる事から、罪のない性質と私たちの望みである、よみがえりのいのちとしての初穂の香りを意味します。
これらから教えられる事は、仮庵の祭り(千年王国)に入った時からその終わりまで、神への全焼のいけにえ(全き献身)により、身(体)も心(魂)も神にささげ、神との和解を持ち、復活のいのちから湧き上がるいのちの香りを永遠に向けて捧げ続けていくという事です。
仮庵の祭りの初日から毎日、八日目まで火による捧げものは続くのです。
この祭りが、聖書を読む者に教えようとしている事は、「私たちは火による剪定を受け、神が望む、神と共に住むにふさわしい者へと聖別されていく」ということです。
八日目の火による捧げものは、そこから新しい始まり、すなわち永遠の始まり(新天新地)を教えて下さっています。
仮庵の祭り(千年王国)に入る前に、私たちは自分自身の魂をコントロール(制御)する事を学ばなければなりません。
ラッパの祭り(後の雨)から、ますます神の御心の中を歩んでいく者となる必要があります。
それは、前々回で学んだように、神が望む「律法であり預言者」として神の御心、神の愛を表し、私たちの周囲に流しだしていく事なのです。
自分の心の中にある欲望や善悪の判断の一つひとつを、イエス様に明け渡していく時に、私たちの心の中に、主の旗(アドナイニシ)が一つ、また一つと立っていきます。
心の中が主の旗で一杯になっていく時、少しずつ神の御心が分かるようになっていきます。
神が、魂(心)を支配するまでに至った時、神の御心を行っていく者としてくださるのです。
神の御心を理解し、行なう事ができた時に、金、銀、宝石の輝きを増す事になるのです。
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2012/05/05(Sat)
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マタイの福音書vol.30 「狭い門から入りなさい」-1
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
今回は、マタイ7章13~14節を見ていきましょう。
13節「狭い門から入りなさい。滅びにいたる門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者は多いのです。」
14節「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」
神の救いへの道は唯一つだけである事を強調されています。
ある宗教家の話で「山の頂上を目指して四方八方から昇って行くと、たどり着く頂点(救い、悟り、極楽、天国)は同じである。」と表現する方がおられます。
それらの事から高い山は天国(彼らが言う極楽)に通じていると思い込んでいるのでしょう。
世界の最高峰であるエベレスト(チョモランマ)でさえも8848m。そこですらも地上であり、天に繋がってはいないのです。
多くの人は「天国は、地上の延長線上にあり、高い山は天国、極楽に一番近い聖地」と思っているようですが、『天国は、ここにある、あそこにあるルカ17章21節』というような場所ではなく、はるか次元を超えた所に存在していて、たった一つの条件を満たした人のみが、そこに入る事ができる所なのです。
その聖なる天の御国に入るための条件は、「罪のなき者」でなければなりません。
その罪は、多くの人を殺害した大きな罪はもちろんの事、生涯一度でも心の中で抱いただけの罪(人の物を欲しがったり、心の中で傷つける事、殺人、姦淫の思いなど)も含まれます。
アダムに始まり、全ての人は罪を犯した罪人です。ローマ3章23節。
誰であれ、罪のある状態のままでは、神のもとへ行くことができません。
神は私たちが、罪のなき者となり御国に入るために、ただ一つの道をつくって下さいました。
人が罪を犯したことにより死を身に招く「罪と死の原理」で全ての人類を覆ったのですが、神は、キリストによって「いのちと御霊の原理」の道を用意してくださったのです。ローマ8章全体。
このローマ人への手紙は少々難しいかもしれませんが、分かりやすく、まとめ説明しますと、「キリストの十字架の中に信じて入っている人は罪に定められないばかりか、罪と死の呪いの中から、いのちの中に移されている」という神が定めた原理なのです。
その中にいる人々は、全ての罪が十字架につけられているため、神の目からは、罪を見い出せない清い者たちとなっているのです。
罪のない者は神の臨在のもとにいます。
それは、神と共に天国にいる事をも意味します。
神が定められた最大の御心である『キリストの十字架』が、私の罪のためである事を知り、信じ受け入れた瞬間に救いがきます。
世界中には、たくさんの宗教、数えられないほどの神々があります。
しかし、いのちに至る門、天に至る道は一つだけです。
日本の文化では複数の神、神社、仏閣を拝み受け入れる事こそ信心深いとの見方をされるので、他宗教を認め、受け入れることのないキリスト教会の中には入ってこないのが現状です。
狭き門に入るためには、自分を罪人と認める事から始まるのですが、多くの人々は、自分が罪人であるという事を認める以前に知らないでいるのです。
罪は犯していても警察沙汰にならない範囲で過ごしている人々は、罪のない善良な市民であるという認識があるからでしょう。
また「他のどんな宗教、どんな神々の中にも、いのちに至る門はありません。いのちへの道は十字架を通らないと行けません。」と、聖書は訴え続けていますが、受け入れがたく、また、それを見い出すものはまれなのです。
いのちに至る門、道を求める人々は「キリストは、私の罪のために十字架つけられ、死の呪いから救い出す為に死んでくださって感謝します。」と、ただ純粋に信じ受け入れればよいのです。
そうすれば、その瞬間にいのちの門の中に移され救いを得ます。
初めての方は、参考にこの祈りをしてください。
{イエス様、今までの生涯の中で、神を認めず、また犯した数え切れない罪、思いの中で犯した全ての罪をお赦しください。
あなたの流された十字架の血潮で私を清めてください。
イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン}
この祈りをして、小さい門、狭い道を通り、いのちを見い出して救いに入れられた人々は次の段階に移されます。
15節「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」
まず、未信者、初信者の立場で見てみましょう。
キリストを信じ、はじめのうちはキリスト教会と名前がついている所はすべて同じだと思っていました。
この15節のようにクリスチャンを装ってその実、異端的な間違った教えの宗教も多くあります。
彼らの最後は、19節「良い実を結ばない木は、みな切り落とされて火に投げ込まれます。」と定められています。
キリストを信じた者たちは良い実を結ぼうと努力する必要はありません。
天の父が、剪定してくださり多くの実を結ばせてくださいます。
多くの実を結ばせるたとえの箇所は、後々(vol.33)で、詳しく説明していきます。
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2012/04/28(Sat)
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マタイの福音書vol.29
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
前回は、マタイ6章33節の「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」と語られた箇所を見ていきました。
この箇所については、クリスチャンになりたてであった時、「まず万難を排して教会に集いなさい」と教えられた記憶があります。
これも間違いではありませんが、私たちの生活は、神の支配に身をゆだねる事に重点をおくべきなのです。
今回から、7章に入っていきます。
マタイ7章1~6節までの中に、「さばいてはいけません」と「偽善者たち」「聖なるものを犬に与えてはいけません」「豚の前に真珠を投げてはなりません」と言われましたが、一転して、神に向かい
マタイ7章7節「求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つけ出します。
たたきなさい。そうすれば開かれます。」と語られました。
私は以前、この箇所を読むたびに、頭の中が混乱していましたが、
ここの箇所の背景を見ていきますと「山上での垂訓(説教)」を語っていたイエス様の周りで聞いている弟子たちや、イエス様を慕う人々に混ざってパリサイ人たち、律法学者たちもいました。
イエス様が語られている多くの言葉の中から、不適切な言葉を見つけて、あげ足を取ろうと、したたかに伺っていた者たちが紛れ込んでいたのです。
しかし、パリサイ人や律法学者たちも「神の国」を待ち望み、安息日に、また各集会においても語っていましたが、彼らが語り教えていた「神の国」は、神の真意(御心)から外れた間違った教えであったため、イエス様は念を押して、マタイ7章1~6節で警告し語られたのでした。
あくまで、この箇所(マタイ7章1~6節)は偽善者に対して向けられたものでした。
イエス様の周りに、飢え渇きつつ御言葉を聞いている者たち(私たちも含みます)には、なぜ、ここで似たようなたとえを繰り返すのかは不思議に思えた事でしょう。
「目から梁(はり)を取りのけなさい。」は有名な御言葉の一つとなっていますので、不思議と目が止まってしまいます。
私たちは、油断をすると、さばきの座をこの地に設けてしまっている所があります。
さばかれるお方は全ったき義(十字架)の基準を持つ『アドナイ ツィドケイヌ(主は我らの義)』なるキリストだけです。
さばきの思いがよぎった時、義(十字架)の基準を自分にあてて、悔い改め、裁きは主に委ねれば良いのです。
{『山上の垂訓』の復習で、御国を得る者は、心砕かれ悔い崩れた魂、さらに義の為に迫害を受け、キリストに命を捧げ、キリストとともに十字架の死とよみがえりを共有し地上にいる時から御国の支配の中に生かされる事です。
義(十字架)の基準を自分にあてる事は、各自で、その度毎に死を自覚します。―死人には、さばく事、ののしる事、罪を犯す事はできません―}
次に、祈りに関して言えば、古き時代イスラエルにおいてパリサイ人たち、律法学者たちは、祈祷文なる書をもって祈祷していました。
(今でもシナゴグーや、嘆きの壁などでラビたちも祈祷文を用いて祈っています。)
イエス様は、彼らの祈りに対して忠告(警告)して、マタイ7章7節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と教えられました。
本来の祈りは、お経のように唱えるものではなく、天のお父さんとの会話であり、お父さんに各自が、思いを打ち明け、行動(アピール)であらわす家族的な交わりである事も強調しました。7章9~11節
そして、健全な家族には、各自、家族一人ひとりに対して愛情豊かな関係が築かれていきます。
12節「何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもそのようにしなさい。これが、律法であり預言者です。」
ここで、律法であり預言者と言われました。
まず、律法から見ていきましょう。
律法の中で一番大切な戒めは「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』二番目は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』律法全体と預言者とが、この戒めにかかっている」マタイ22章37~40節。
律法の中の十戒、1~4までは「心を尽くし、神を愛せよ。」5~10までは「隣人をあなた自身のように愛せよ。」であって、これが律法であり預言者だ。と言っています。
律法は、神が定められた教えの真理であり、当然の事ながら神の御心の中心です。
次に預言者とは、神の言葉、思い、御心を預かって人々に伝える者です。
預言者は神への全き服従と忠誠心、そして何よりも、へりくだった魂の持ち主です。
神の言葉、思い、御心は、神の愛によって包まれ語られる事になります。
預言者は、神の深い愛の恩恵に預かりつつ神の言葉を伝えるのです。
そこから、次の言葉を見ていきますと「何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもそのようにしなさい」
それは、「神への愛(律法全体)と、私自身のように隣人を愛する事。」この律法の言葉と神の御心を漏らす事なく神から預かって、人々に伝える事。これが、律法であり預言者なのです。
黙示録19章10節には「イエスの証しは預言の霊である」と記されています。
神の愛、御言葉、御心を預かってそれを証しする者であり続けましょう。
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2012/04/21(Sat)
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マタイの福音書vol.28
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
マタイ6章33節「神の国とその義をまず最初に求めなさい」
『主の祈り』(9~13節)の後に罪の赦しの補足を14~15節で語られ、祈りの中の報いと力が大きい「断食の祈り」の陥りやすい注意点を、偽善者(律法学者)たちを例にとり、教えられました。
そして、マタイ6章で『主の祈り』のもう一つのテーマとなる6章33節「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、それらのものは全て添えて与えられます。」の御言葉に到達するための説明と教えが19~32節で語られました。
思いおこしましょう。
『主の祈り』の中心は「御国」です。
33節のはじめでも「神の国(天の御国)とその義を第一に求めなさい」であり、こちらも御国によりサンドイッチされています。
御国は、一言で言い表すなら「神の支配」です。
「神の支配」の中では私たちが不可能と思える全てが「神の支配」の中では可能となります。
また、もう一言付け加えるなら、私たちの想像する事のできない無限、永遠さえも緻密な計画を持って、ご支配されておられるのです。
その永遠と、栄光の富(参考=ピリピ4章19節)を所有しておられるイエス様が、19節から宝について教えてくださいました。
私たちの持つ『宝』についての認識と価値は人それぞれです。
『宝』は、人によって価値観が違い、ほかの人から見れば何の価値もないように見えるものであっても、本人にとればいのちに匹敵、もしくわ、命よりも大事な物もあるでしょう。
絵画や陶磁器など、数々の骨董品。
価値を見出している人には『宝』。
価値を感じない人から見ればゴミとしか感じられないのが現状です。
しかし、自分にとっては一番大切にしているものが『宝』であり、たとえ周囲から理解されなくても『宝』は『宝』です。
そこで、マタイ6章19節を見ていきましょう。
19節、「自分の宝を、地上に蓄えるのはやめなさい。
そこでは、虫と錆で傷物になり、また、盗人が穴をあけて盗みます。
20節、自分の宝は天に蓄えなさい。
そこでは、虫も錆もつかず、盗人が穴をあけて盗む事もありません。
21節、あなたの宝のある所に、心もあるからです。」
『山上の垂訓』の大詰めの、神が私たちに求める心のあり方をイエス様は示されました。
ここで言う、真の『宝』とは何でしょうか?
まず、聖書のはじめから見ていきますと、人を含めた全てのものは土と、土のチリで造られています。
純金、銀、銅、ダイヤモンド、プラチナ、すべて値打ちのある鉱物資源でさえも元は土です。
お金、紙幣は火で簡単に灰になり無くなります。
鉱物でさえも永遠の神の目から見れば錆付きます。
宝を人に見立てるとするならば、なおのこと、80~120歳程で命つきます。
それら「地上に属するものを『宝』としてはいけない。」との意図です。
永遠に残る真の『宝』を『宝』とすることです。
私たちは、キリストから何にものにも変えがたい救いと永遠のいのちを無償で与えられました。
その『宝』を、私たちの回りにいる人々に分け与え、彼等が『宝』に預かる者となって、天にその『宝』を蓄えていくのです。
キリストと、キリストにある友は、かけがえの無い『尊い宝』です。
今一度、私たちの心の中を吟味して、私の一番の『宝』とは何か。
真の『宝』を第一とした生活をしているかを、日々、デボーションの中で思い巡らせて見ましょう。
もし、その『宝』なるお方が「世の光」なるイエス様であるならば、22節「からだのあかりは、目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」とおっしゃっています。
(あなたの目が健全=ギリシャ語では澄みきっているという意味です。)
私たちの心に様々な『宝』があれば、真の『宝』の存在が暈(ぼか)され、また、隠されていきます。
純粋に、真の『宝』に満たされている者の目は澄んでいて、あなたの目の深い所から出て、清い光を放っていくという意味なのです。
24節「誰でもふたりの主人に仕えることはできません。
一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからである。
あなた方は、神にも仕え、富にも仕えることはできません。」
ここでも、『宝』の延長となるたとえを教えています。
私たちの心はそれ程、一筋なわではいかないと言う事です。
それは、はじめの人アダムとエバが蛇に惑わされ、罪の種を魂に植え込まれ、その罪が全人類に及んだ為です。
イエス様はくどいように色々なたとえをもって私たちに忠告し、教えて下さっています、
マタイ6章25~32節にかけて、富に目を向けないように警告されています。
鳥のように、野の花のように、背伸びする事なく、私は私なりに、あなたはあなたなりに、純粋に神に仕えていく生活でいいのです。
マタイ6章33節「神の国と神の義を、まず最初に求めなさい。
そうすれば、全てのものは添えて与えられます。」
神の国(神の支配)と神の義(キリスト)を求めることにより神は私たちを神の支配の中で養って下さいます。
支配とは、権力者のもとに人々がおかれ、統治されている状態のこと。
いくら独裁国家の首長、総裁、大統領であっても権力者としての務めはその国民を養っていく義務であり、それによって手腕が問われてきます。
しかし、我が神、救い主なるお方は、愛し求めてくる者たちを、ないがしろには致しません。
私たちが、愛する家族を守り養おうとする以上に神は、神の国(神の支配)と神の義(キリスト)を求めるものに最上、最高の栄光の富で応えて下さるのです。
さらに、求めて来る者に明日の事、将来の事の全てを支配されているお方は、私たちの生活全てを心配(配慮)し、とことんお世話してくださるのです。
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2012/04/14(Sat)
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マタイの福音書vol.27
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
『主の祈り』その四
マタイ6章9~13節(新改訳)
9節 『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
10節 御国が来ますように。
御心が天で行なわれるように、地でも行なわれますように。
11節 私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
12節 私たちの負いめ(罪)をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめ(罪)のある人を許しました。
13節 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]
今回は、13節。
『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』を見てまいります。
前回、『主の祈り』の応答が、はじめにイザヤ書に書いてある事を紹介しました。
イザヤ57章15節をもう一度見てみましょう。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖と唱えられる方が、こう仰せられる。
『わたしは高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人と共に住む。』」
前回は、この箇所から(1)~(3)までの『主の祈り』の応答を見てきました。
今回は、(4)『へりくだった人の霊を生かし、
砕かれた人の魂を生かすためである。』と照らし合わせつつ見てまいりましょう。
『主の祈り』では、「私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。」となっています。
悔い改め、へりくだり、粉々(ペッチャンコ)な魂となった人の魂(心)の中心に神は宿ってくださり、霊から魂、そしてからだ全体を覆って、養い守ってくださいます。
八福(八=よみがえり)の説教を振り返って見ていきますと、
心の貧しいもの、悔い改めた心、砕かれた魂となり神への従順を学んでいきます。
次に欲と罪から分離され、神への服従を学ぶ事になります。
キリストの義の衣の備えを得、自分の思い、考え、私利私欲の全てを一掃し、心の中心にキリストを据えていきます。
さらに父の安息の中、常にどんな時も離れる事なく小羊なるキリストについて行き、行く先々で、神の恵み、神の平和を流し出すのです。
八福の教えの締めとして、義(キリスト)のための迫害を、喜びを持って受け止め、キリストの死を共有していく者となっていきます。
死を共有すると同時に復活の命も共有する者となっていくのです。
その死をもって人々にいのちを提供する「地の塩」となり、人々を照らす「世界の光」となっていくのです。
「私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。」に戻って見てみますと、悔い崩れ、砕かれた魂の真ん中に宿り(覆い、臨在し)、その魂を支配されているお方が「私たち(砕かれた魂)に覆いとなり、あらゆる悪から守り救ってくださるようにという」祈りの答えがイザヤ57章15節後半『へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の魂を生かすためである。』にあるのです。
「主の祈り」の答えが二重の「いのち」の約束でありました。
永遠を生きる為に必要ないのちは「復活のいのち」です。
はじめに「救いのいのち」を得、日に日に信仰が成長し整えられていき「復活のいのち」を与えられた者たちは、神の前に生かされたものとなるのです。
与えられた「復活のいのち」の中で『国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン』と永遠に、神に礼拝を捧げる者たちへとなっていくのです。
{―参考―
アーメン『 אמן 』(ヘブライ語)とは、イスラエル国内で人の会話の中では日常、使われる事のない言葉ですが、ユダヤのシナゴグーやキリスト教会の中では説教や祈りの中、または終わりの際に必ず使われていて、その意味は、永遠に変わる事がない神の真実(真理、本物、本当)、という意味で使われています。
神の御名をみだりに唱える事が許されていないイスラエル・ユダヤでも、間接的に『神』をあらわす言葉としてアーメン『 אמן 』は、用いられています。
ちなみにイスラエルで旧約時代から使われている「御名」=シェム『שם』も、間接的に『神』を表す言葉として使われ続けています。}
さて、マタイ5~7章にわたってイエス様が教えられた『山上の垂訓』で、神の御心を見ていきましょう。
神の御心。
それは、信じる全ての者に御国(神の支配)を与えたくて仕方がないという「神の思い。神の願い。」です。
八福の最初「心の貧しい者は幸いです。」と八番目「義の為に迫害されている者は幸いです。」の双方の約束には同じ文言で「天の御国は、その人のものだからです。」と天の御国でサンドイッチしています。
『主の祈り』の文のはじめには、「御国が来ますように」最後には「国と力と栄(これは天の御国、神の支配。)とは、とこしえにあなたのものだからです。」と、こちらも御国でサンドイッチされています。
6章全体は、祈りについての教えの章であり、冒頭に「主の祈り」での「御国が来ますように」から、章の締めに「神の国とその義を求めなさい。」でここでも天の御国のサンドイッチが見られます。
5~7章全体の『山上の垂訓』で、第一声の5章3節「天の御国はその人のものだからです。」から7章21節での最後のたとえ「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なうものが入るのです。」までで、神が私たちに伝えたいメインテーマは、
『神の御心を行なうものとなり、御国を所有しなさい。そして御国を行使し、御国に入りなさい。』
と招いておられるのです。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と「御国」を約束された人は、のちに徐々に整えられていき、キリストと共に復活する事になりますが、なかなか一足飛びにキリストの死と復活を共有する事は難しいものです。
八福の順序を経ていく時に、生きている中において、キリストの死と復活を共有し、御国が与えられていく事になっていくです。
私たちの中に天の御国を与えられる為の御国の方程式は、「心の貧しいもの」から少しずつ進んでいき『神と私たちとの七つの関係』の中で、今、自分がどの段階にいるのかを知り、一歩一歩成長していくようになります。
この地上における『神と私たちとの七つの関係』によって通されたテストから永遠の時代に移った時、各自が与えられる天(太陽・月・星々)の栄光の違いが見られます。Ⅰコリント15章41節
この地上において「神との七つの関係」から与えられる神からのテストを通されて、御心の真ん中を歩むものとなり、少しでも神の栄光の近くにおいていただけるように、日々整えられて参りましょう。
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2012/04/07(Sat)
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マタイの福音書vol.26
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
『主の祈り』その三
マタイ6章9~13節(新改訳)
9節 『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
10節 御国が来ますように。
御心が天で行なわれるように、地でも行なわれますように。
11節 私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
12節 私たちの負いめ(罪)をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめ(罪)のある人を許しました。
13節 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]
今回はマタイ6章12節
『私たちの負いめ(罪)をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめ(罪)のある人を赦しました。』から学んで参りましょう。
イエス様が、山上の垂訓の八福を通して、私たちに教えて下さっていることは、神の御心の真ん中を歩む事です。
そして、キリストと密に交わりを持ち、キリストと共に歩み、キリストの生き様をも共有していく中に、神の栄光が表われていくのです。
『地の塩』の教えを思い起こしてみましょう。
当時から塩は「死海(イスラエルでは「塩の海」と呼ばれています)」で年中、自然に塩の柱ができるので、そこから国内外に供給されています。
この「死海」とその周辺は、生物が生息するのに難しく、命の気配すら感じられない「死」を意味する事から ❝The dead sea❞ 死の海と呼ばれるようになりました。
その「死」により「塩」ができ、人々の役にたち、「いのち」と健康を民に与えて続けています。
イエスキリストの十字架の死は全ての人の罪の身代わりとなり、信じる全ての者に永遠のいのち(塩)を与えます。
イエス様は十字架の死により罪を赦しました。
イエス様を信じる者(私たち)も義(キリスト)のために自らの命を、主に捧げる時にキリストの死を共有し、私たちに罪を犯すものを赦す事ができる者となるのです。
私たちが神の前に犯した罪と、私たちに罪を犯す者たちについて、マタイ18章23~35節に一万タラントの負債を免除した主人と、免除された者が彼の仲間に貸したわずかな負債に対して返済を免除しなかった事のたとえから見てみましょう。
ここに記されている一万タラントの価値とはどの位かは想像がつかないと思います。
{―参考― 旧約時代、黄金の目方、銀の目方、銅の目方を量る基準となる単位でした。
1タラントは約34~35kg。
今日(2012・4・6付け)のレート4,573,000円/1kgで換算すると、
黄金35kg = 1億6,005万5千円。となるようです。
これだけ見ても現代でも1タラントは、すごい金額となりますが、一万タラントですから、その一万倍です。(ちなみにマタイ25章14~29節のたとえに出てくる1タラントも同じ価値です。)
それに対して百デナリは、百日分の日当ですから比較にはならない程です。}
私たちは神から絶対に返済不可能な金額をチャラにしてもらっているという事が理解できます。
それに対して百デナリの場合は、私たちにも努力すれば実現可能な免除できる負債金額という事も分かってきます。
しかし、イエス様は努力を勧めているのでしょうか?
『山上の垂訓』での『主の祈り』の中に答えは隠されているようです。
今までの学びの流れを見てきますと「死んだ者」は殺さず、罵倒せず、嘘をつかず、傷つけたりはしません。
「死んだ者」は人々の役に立つ「塩」となるのです。
キリストは死によって罪を赦しました。
キリストを信じる者もキリストの死を共有する事によって「地の塩」「世界の光」となり人々の役に立ち、罪を赦す事ができる者となるのです。
12節 私たちの負いめ(罪)をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめ(罪)のある人を赦しました。
ここでのもう一つの注目箇所は、「お赦しください。」です。
ここにクリスチャンたる基本姿勢が記されています。
悔い改めにより神の憐れみがその人を覆い、また悔い改めの中に神の臨在が宿るのです。
イザヤ57章15節を見てみますと、
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖と唱えられる方が、こう仰せられる。
『わたしは高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人と共に住む。
へりくだった人の霊を生かし、
砕かれた人の魂を生かすためである。』」
ここの箇所は、旧約の中から私たちに語りかけている『主の祈り』の答え、主からの解答だと確信しています。
主は、はじめに古き旧約の時代から答えを提示されていました。
イザヤ57章15節を四つに整理して読んでいきますと、
(1)いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖と唱えられる方
ここはマタイ6章『主の祈り』の9~10節。
イザヤ書57章15節では、天から神ご自身のあがめられている状況が映し出されているのに対して、マタイ福音書での『主の祈り』では、地上の民から神をあがめている祈りの姿です。
(2)こう仰せられる。
申命記8章3節b『人は、主の口から出る全てのもので生きる』
神が言葉を発する時、人々に癒しを与え、力を与え、いのちを与えます。
もちろん「人はパンだけで生きるものではない」のですが、主は、日ごとの糧をも与えるお方なのです。
神から出る言葉、御告げは何一つ地に落ちる事なく、神を信じ慕う者の益となるのです。
ここにある、「仰せられる」という短いワンフレーズには、私たちに対する多くのメッセージが込められています。
また、神がさばきの言葉を発する時、それに耐えうる者は誰もいません。(黙示録19章15節「終末最後のさばきの時、地上再臨されたキリストのさばきの言葉、するどい剣でキリストに敵対する全ての者は滅ぼされます。」)
(3)わたしは高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人と共に住む。
神が喜ぶ住まいが記されています。
聖書の創世記から黙示録に至る66の書簡は、言葉、言い回しは違いますが、言っていることは一貫しています。
神は、悔い改めている者、へりくだった者、砕かれた魂、灰をかぶり神の前にひれ伏している者、心貧しい者などを憐れみ、愛し、守り、彼ら(イスラエル)の中に住まい(幕屋)を設けてくださいました。
マタイ6章12節の「私たちの負い目(罪)をお赦しください。」は、神の前に「神よ、私の中に宿ってください。」という心砕かれたへりくだった悔い改めの基本姿勢なのです。
私たちは、祈る時、奉仕する時、周りの人々と交わる時、心が砕かれた悔い改めの姿勢で、日々歩む者となっていきたいと願っています。
次回は『主の祈り』その四
『主の祈り』の「試みにあわせないで悪からお救いください」からイザヤ57章15節の後半の、祈りの答えとを照らし合わせつつ
(4)「へりくだった人の霊を生かし、
砕かれた人の魂を生かすためである。」
と照らし合わせて見ていく事にしましょう。
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2012/03/31(Sat)
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マタイの福音書vol.25
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
『主の祈り』その二
マタイ6章9~13節(新改訳)
9節 『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
10節 御国が来ますように。
御心が天で行なわれるように、地でも行なわれますように。
11節 私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
12節 私たちの負いめ(罪)をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめ(罪)のある人を許しました。
13節 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]
今回は、『主の祈り』の中のマタイ6章11節
「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。」を見てまいりましょう。
ここでの日ごとの糧は、聖書の御言葉である事は、言うまでもありません。
創世記2章7節で人(ヘブライ語でアダム)をつくられ、その後19節で、土からあらゆる野の獣、空の鳥をつくられ人のもとへ連れてきました。
これら神との多くの時間の中で人(アダム)は、神との交わり(会話)を持ち、神が連れてきた全ての動物に名前を付けていきました。
ちなみに、私たちが、いざ、名前を付けようとする時、10や20の名前を付けるのでも難しいのではないでしょうか。
しかし、人(アダム)は全て(何千、何万種類以上)の動物に名前を付ける事ができました。
彼は、神との交わりを持つ事によって、神の啓示に満たされていたからです。
創世記2章16節~17節でエデンの園の中で、中心にいのちの木と、善悪の知識の木がありました。
その周りには色々な実のなる木があり、善悪の知識の木以外の木からはどれをとって食べてもよかったのですが、残念な事にアダムがエバと食べた木の実の記述は唯一、創世記3章6節の善悪の知識の木の実だけでした。
そもそも、密に神との交わりを持っていたアダムは、木の実を食べなくても生きていたのです。
善悪の木の実以外のいのちの木の実も、ほかの色々な木の実も食べる事もなく、神との交わりにおける『ハイイム』いのちの恵みの中で養われていたのです。
さて、四十日四十夜、主と共にいてパンも水さえも取らない断食を二度体験したモーセを見てみましょう。
一回目のシナイ山へは出エジプト24章18節~32章15節。
二回目のシナイ山へは出エジプト34章1~29節。
一回目のシナイ山から四十日四十夜の断食の後降りてきたモーセが、再び、シナイ山に登ったのは二日後。
そこで二度目の四十日四十夜、モーセは断食する事になったのです。
出エジプト34章28節「モーセはそこに、四十日四十夜、主と共にいた。彼はパンも食べず水も飲まなかった。」
そこで主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた(出33章11節)のです。
四十日四十夜、主と顔と顔を合わせて語られた姿から、その語られている言葉の中に「いのち」が存在している事を、知る事ができます。
ここでモーセと顔と顔を合わせて語られたお方はイエス様でありました。
新約においてイエス様はマタイ4章4節で申命記8章3節から引照した御言葉で『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる』と語られました。
ヨハネ福音書6章35節では、「『わたしはいのちのパンです』私に来る者は決して飢える事がなく、わたしを信じる者はどんな時にも、決して渇く事がありません。」と教えられました。
さらに、ヨハネ福音書7章37節「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心(腹から)の奥底から、生ける水の川が(川々となって)流れ出るようになる。」
モーセは二度にわたる四十日四十夜のあいだ、主から語られる「いのちのパン」(『ハイイム』のフルコース料理)と清い「生ける水の川」のもてなしを受けたのです。
創世記にさかのぼって見てみましょう。
はじめの人(アダム)もあらゆる木から取って食べても良かったのですが、いつも神と共にいて、神と密に交わりを持っていたアダムも、主から語られる「いのちのパン」『ハイイム(複数形のいのち)』を得ていたのです。
以前、創世記2章7節を読んだ際「神である主は、いのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きもの(原語では、いのちを持った魂)となった。」と注目の二つのいのちを見ていきました。
神は『ハイイム』(複数のいのち)を人に吹き込んだ。
そこで人は一人としての生きもの『ハイ』(単数形のいのち)となったのです。
神が人と語り、交わりを持つ時、常に神の口から出る『ハイイム』を人に吹き込んだのです。
アダムは神と、交われば交わるほど『ハイイム』で満たされました。
モーセも二度にわたる(この世で言う)四十日四十夜の断食でありましたが、パンも水も飲み食いする必要がなく、満たされ続けたのです。
11節 『私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。』
私たちも神の表面(聖書の文面)だけではなく、アダムのように、そしてモーセのように一歩進んだ神の御言葉、神との会話、その交わりの深みである『ハイイム』=いのちの恵みに預かり続ける者でありたいものです。
この11節は、私たちの魂の深みから出てくるうめき声、その切なる祈りなのです。
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2012/03/24(Sat)
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マタイの福音書vol.24
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
『主の祈り』その一
マタイの福音書を熟読する時間が与えられ、毎回導かれた文章を書き出す事により、おかげ様で、たくさんの恵みに預からせていただいています。
バックナンバーを復習しては教えられ、また新しく書いては恵まれ、再び読み返しては新しい発見をしています。
マタイの福音書5章に於ける山上の垂訓の「八福の説教」は、私の手に負えるようなものではありませんでしたが「神と私たちとの七つの関係」から導かれ、教えられ、最高の福(八福=よみがえりの福)に移されるレポートが形成され紹介する事ができました。
さて、今回は、『主の祈り』を4回に分けて見ていきたいと思っています。
マタイ6章は、私独自で「祈りの章」と呼んでいます。
ここは『主の祈り』を中心に、祈りについて教えて下さっています。
マタイ6章9~13節(新改訳)
9節 『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
10節 御国が来ますように。
御心が天で行なわれるように、地でも行なわれますように。
11節 私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
12節 私たちの負いめ(罪)をお赦しください。
私たちも、私たちに負いめ(罪)のある人を許しました。
13節 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]
私はクリスチャンになったばかりの時、先輩信者のように長い祈りはできないとコンプレックスを持っていました。
日が経つごとに少しずつ祈れるようになって来ましたが、最近では上手な祈りを目指すのではなく、私流に、その時その時に、心に迫りがきた課題をピンポイントで祈るようにしています。
さて、イエス様は、私たちに最も優れた祈りの手本として「こう祈りなさい」と『主の祈り』を教えてくださいました。
今回は、『主の祈り』その一です。
神への祈りは、罪赦され、救いに預かった神の子たちに天の父から与えられた神の恵みです。
昔から神へ祈る行為は世界共通でした。
それを踏まえつつ『山上の垂訓』の中で語られている、『主の祈り』を見てまいりましょう。
山上で語られた天のいのちの教えは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」から始まりました。
そして、八番目「義の為に迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と教えの最初と八番目で天の御国によってサンドイッチされている事に気づかれましたか?
神の御心は、私たちにまるごと天の御国をプレゼントしたいのです。
天の御国は神の支配の中にあり、神の支配を私たちに共有させたいのです。
天で、地上で、神の子たちが御国の支配の中で御わざの栄光をあがめ、賛美と礼拝をささげます。
天では、神への礼拝が絶え間なく続き、御心が行われている事を『主の祈り』の冒頭で表し「御心が、地でも行われますように」と教えられたのです。
7key truthsの故ロバート・ユーイン氏の直弟子であられる笠巻氏は、『主の祈り』のはじめの
(1)「主の御名があがめられますように。」
(2)「御国が来ますように。」
(3)「御心が天で行なわれるように、地でも行なわれますように。」
は、三つの祝福であると教えて下さっています。
(1)「主の御名があがめられますように。」神の臨在の祝福。
主の御手の中にあって、主と親しく、密接に交わりを持ち、臨在の中で生かされます。
申命記33章3節a「まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、全ての聖徒たちがいる。」
(2)「御国が来ますように。」神の支配の祝福。
御国には、神の支配の中の力強い御腕の働きがあります。
永遠の腕で、私たちの前から敵を追い払い、根絶やしにします。申命記33章27節
(3)「御心が天で行なわれるように、地でも行なわれますように。」
御言葉の祝福。
ここで、神の定められた真理の数々を、聖徒たちの心に教え込まれます。申命記33章3節b「彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。」
ここでの御告げは、天における神が定められている真理であり御教えです。
1神の定め(幕屋)の真理
2安息の真理
3勝利の真理
4カルバリの真理
5支配の真理
6救いの真理
7時代の真理
の七つの真理からなる御心が、「天で行なわれていると同じように地でもおこなわれるように」
この7key truthsの真理はとても深い真理なので私自身、まだ表面だけしか理解できていないのが現状です。
毎月、笠巻氏から定期的に教えを授かっていますので、得られた啓示の中から少しずつでも導かれた箇所から紹介できたらと思っています。
次回は、『主の祈り』の中の11節を見ていく事にしましょう。
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2012/03/17(Sat)
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マタイの福音書vol.23
「山上の垂訓」 マタイ5~7章
八福の説教をみてまいりました。
前回、vol.22では「義のために迫害されている者」から「地の塩」を見てまいりました。
「地の塩」の箇所を少々復習してみましょう。
塩はイスラエルの「死海」で精製され各地に供給されています。
塩がなくては、人は病気がちになり生きるのが困難になります。
塩は、清め、消毒、保存、食事の味付け等に使います。
人に必要なミネラルは僅かな塩で摂取できます。
その塩は、死海(生物が生息するのに難しい場所)でつくられています。
ここでの「地の塩」の教えは「死が人に役立つ塩をつくる」というメッセージでした。
義(キリスト)のための死は塩となり、人にいのちをもたらすのです。
5章13節の「地の塩」の啓示で、義(キリスト)のため「死んだ者」となった者たちは、「死んだ者」の立場から見ると21節以降列挙されている戒めの一つ一つが理解しやすくなります。
死人には、殺すことも、バカ者と罵る(ののしる)事も、告訴する事もできません。
マタイ5~7章の各戒めの一つひとつには、死んだ者と生きた者を裁かれる神(第二テモテ4章21節)の御心と戒めが書かれています。
それをふまえて、山上の説教の続きを見ていきましょう。
14節 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事がありません。
15節 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
16節 このように、あなた方の光を人々の周りで輝かせ、人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。
私たちは「世界の光」であるとイエス様は語られました。
イエス様はヨハネの福音書8章12節で、
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩む事が無く、いのちの光を持つのです。」と言われました。
イエス様を信じる者はいのちの光を持ち、イエス様から得た光で、世界の隅々にいのちの光を行き渡らせるのです。
光は、山の頂上や家の中心に置きます。
「いのちの光」はイエス様の光です。
私たちの自我が生きていると「いのちの光」は輝けない。
私たちが死に近づく毎に、いのちの光は輝き出すのです。
そして、キリストの死を共有した時、「地の塩」となり、人々の役に立ち、また「いのちの光」となり、山の頂上から遠くまで照らす強く明るい「世界の光」となっていくのです。
次に、17節。
わたしが来たのは、律法や預言者を廃棄する為だと思ってはなりません。
廃棄する為ではなく、成就する為に来たのです。
18節 まことにあなた方に告げます。
天地が滅びうせない限り、律法の一点、一画でも決してすたれる事はありません。全部が成就します。
19節 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また戒めを破るように人に教えたりする者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかしそれを守り、また守るように教える者は、天の御国で偉大な者と呼ばれます。
この律法の中の一点、一画とは、どういう意味でしょうか?
『 יהוה 』この文字はヘブライ語のヤーウェー『主』です。
そして『 יה 』(ヤー)は『神』です。
イスラエルでユダヤ人たち、ラビたちは、「神の御名をみだりに唱えてはならない。」という観点から、この主の名ヤーウェーをアドナイと読みます。
ご覧の通り、見慣れない方々には、点と、画(かく)の集合体に見えると思います。
一点は、 י(ユード)。
一画は、ה(ヘイ)。
この二つの組み合わせで『 יה 』(ヤー)。
これだけで神を表します。
イエス様が言われた「一点、一画」は、ヤー(神)及びヤーウェー(主、アドナイ)を、律法学者たちに指摘するために、間接的に例えた神の御名を指していたのです。
彼らが教えていた中に一点、一画なるお方『 יה 』(ヤー)の御心は省かれていました。
また、どのような戒めのひとつでも破る事の意味とは、律法(アスレートハディブロート=十の戒め、教え)、モーセ五書(トーラー)、旧約聖書(タナハー)の御言葉の一つひとつの戒めですが、どれも守れそうもない戒めばかりですので、ユダヤの律法学者たちが『律法、聖書の戒め』を「補助する書物」を作って聖書よりその書物を中心に民に教え、指導していました。
そのひとつの例が、安息日の規定です。(―参考―ヨハネの福音書vol.11)
安息日には、如何なる労働もしてはならない。
床を取り上げる事も(ヨハネ5章10節)また、倒れているものを助ける事や、寝ている者を起こす事も許されなかった。
{今でもラビたちは、ユダヤの『ミシュナー』という教えの中で外出の際、許される距離も行動も指導しているようです。}
また、人がその父、母に「あなたに捧げる者は供え物です。」と言えば父、母を敬わなくてもよろしい。マタイ15章5~6節
これらは、聖書には記されていない事であり、彼ら(律法学者)が付け加えて、自分たちが律法に違反していないかのように書物を作り、書き加えていたものです。
その名残り(なごり)で今も、ラビといわれている人たちの中で、受け継がれています。
ここで、イエス様は、人が作った書物が律法を破るように教えている実態を戒められました。マタイ15章9節
それでは、律法を守るためにはどうすればよいのでしょうか?
山上の垂訓がはじまり、八福の説教を通して、説教を聴いている民は、神への道と神への信仰が引き上げられてきています。
神への従順、欲と罪からの分離、神への服従、キリストの義の衣の備えを得、自分の思い、考え、私利私欲の全てを一掃し、心の中心にキリストを据えます。
さらに父の安息の中、常にどんな時も離れる事無く小羊なるキリストについて行き、行く先々で、神の恵み、神の平和を流しだすのです。
教えの締めとして、義(キリスト)のための迫害を、喜びを持って受け止め、キリストの死を共有していく者となっていきます。
死を共有すると同時に復活の命も共有する事となっていくのです。
この延長で、「地の塩」のたとえにより、その死をもって人々にいのちを提供する者となり、人々を「世界の光」で照らしていくのです。
このように七つの段階を通して見て分かる事は、
「生きている者は、罪を犯し続けるが、死人は罪を犯さない。
義(キリスト)のための死は人々の役に立ちますが、生きている者は、役に立たない塩として、人に踏みつけられる。」という事です。
その後、イエス様が続けられた一つひとつの戒めは、生きている者にはつらく、守ることは難しく思える事ばかりです。
しかし、八福の説教を理解できた人たちには、難しい教え、守れそうもない戒めは一つもありません。
なぜなら、死人は、これ以上、罪を犯せないからです。
罪を犯す事も、人を傷つける事もできないからです。
21節「殺すな。殺す者は裁判を受けなければならない」
22節 兄弟に向かって腹を立てる者、「能無し」「ばか者」と言う者は・・・。
28節 情欲を持って女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
29節 もし、右の手が、あなたをつまずかせるなら・・・。
30節 離婚状を・・・。
33節 偽りの誓いを、・・・。
39節 悪い者には手向かってはいけません。
40節 下着を取ろうとするものには・・・。
44節 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
6章1~4節 施しをする時、右の手のする事を左手に知らせるな。
5節 祈る時は、奥まった部屋で・・・。
キリストと死を共有している者たちにとっては、これだけ列挙された戒めの項目も、難しいものではありません。
彼らは、「キリストと共に死んでいる死人」だからです。
『死んだ者』には、人を殺す事はできませんし、腹を立てる事も「能無し」「ばか者」と言う事もなく、情欲などは皆無、つまずかせる事もありえません。
離婚もせず、偽りを言う事もない。
悪い者に手向かう事もなく、裸にされても何も感じません。
死人に敵は存在せず、おおっぴらに施す事もありえません。
日本には、古くから「死人に口なし」ということわざがあります。
このことわざの意味とは異なりますが『キリストにあって死んだ者』は、自己主張する事はできません。
これらの戒めは、生きている者に対しての戒めなのです。
生きている者とは、私利私欲の中にある者、自分の主義主張を放棄できない人の事です。
私たちと「八福の説教」を学び直して、キリストを今一度探り知り、キリストと共に歩み、キリストの死を共有し、生きているうちにキリストの復活のいのちにあずかれるよう、主への信仰を整えていきませんか。
次回は、多くの方々が、暗唱していると思います『主の祈り』を学んでまいりましょう。
By ナルド・ホームチャーチ
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2012/03/10(Sat)
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マタイの福音書vol.22「山上の垂訓」
八福の説教 マタイ5章~
10節 「義の為に迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人のものだからです。」
前回にひき続きこの節もサタンの国、この世とこの世の君に対してオフェンス(攻撃)的な御国の働きを表しています。
前回、神の栄光は平和の君=統治者シャローム(アドナイシャローム)なるお方として表わされました。
この10節は「義なるキリスト(主は我らの正義・アドナイツィドケイヌ)」がクリスチャンたちを通して表されている御国の栄光に対して、サタンが猛烈に交戦し、圧力をかけてくる事の預言と励ましのメッセージなのです。(使徒行伝全体)
「神と私たちとの七つの関係」を学び成長し、全ての工程(テスト)を体験したクリスチャンたちは、次に生死の境のテスト(―信仰のテスト―)の中を歩む事となります。
ここではキリストと共に死に、キリストと共によみがえる、死と復活の信仰の中を歩むのです。
そして八福の説教の8番目のメッセージ、「新しい始まり」へと導かれていくのです。
前にも説明しましたように、ヘブライ語、ギリシャ語の数字には意味があり『8』は復活を意味し、音楽用語においてはオクターブ(高音、低音の重複音)、また、新しい始まりを表しているのです。
オクターブ(高音、低音の重複音)について見てみますと、そこには重複の力の祝福があります。
一個の旋律に複数のオクターブが加われば、音に大きな力が放たれ大きなインパクトを与えるのです。
祭司が吹く角笛の音と、イスラエルの民の重複された『時の声』をもってエリコの城壁は崩れ去りました。ヨシュア6章16節
ここの箇所は、地上のイスラエル{ヤシャール+エル、神に純粋一途}の民とイスラエルの神{これも同じくヤシャール+エル、神は純粋一途}の重複の力の働きでした。
七人の祭司たちが七つの角笛をもって、一日一周、六日間エリコの城壁を回り、七日目にはその城壁の回りを七周回った七の重複が、ここに描かれています。ヨシュア6章8~20節
八福の説教の(1)において、心貧しくへりくだりキリストに飢え渇きを持ち、キリストを信じた瞬間に義と認められ、死ぬべき者がいのちに移されました。
そして、(8)で義(キリスト)の為に迫害を受けた者は、キリスト同様に復活のいのちに満たされて、天の喜びに踊る者となるのです。
(1)と(8)には生死を越えた、よみがえりの約束が、オクターブ(重複、共鳴)の祝福として彼らの身に成就するからです。
12節「喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなた方の報いは大きいのだから。
あなた方より前にきた預言者たちもそのように迫害されました。」
使徒たちにとっては、彼らが迫害される前より、迫害の後の方が、神の栄光がはるかに大きかったのです。
ここに生きたうちに体験する事の出来る「復活のいのち」の ―信仰のテスト― があります。
義の為、キリストの為の迫害は、神の御国の栄光をさらに増幅させるのです。
「死に至るまで忠実でありなさい!
そうすれば、いのちの冠りをあなたに与えよう。」黙2:10
ここの段階に到達している人々が、義(キリスト)の為に受ける迫害には、キリストがいのちを全うした如く、祭壇の上にのったイサクのように死を覚悟し、義(キリスト)なるお方にいのちを捧げます。
「平和を作り出すもの」における ―信仰のテスト― では、キリスト主体の信仰の中で、私たちから無敵の『統治者シャローム』が解き放たれていき、神の栄光が地の上に現われていきます。
「義の為に迫害されている者」の中の ―信仰のテスト― は、キリストの生き様、死に様を、自らも共有し、喜び踊ることのできる復活の信仰の世界に入っていくのです。
死んだ後に体がよみがえる「復活のいのち」だけではなく、生きたうちから「復活のいのち」の中に移されていき、天の喜びを地上にいるうちから体験していくのです。
そして、13節「あなた方は、地の塩です。」と続いています。
今まで10~12節と13節は、違うメッセージとして切り離して読み進め、また理解していましたが、この13節のメッセージは、これまでの「義の為に迫害されていた者」の10~12節のメッセージと非常に重要な関連があり、決して切り離せない10~12節の次の段階(ステップ)の「復活のいのち」のメッセージなのです。
塩は、イスラエルの死海周辺で精製されています。
「死海」は英語読み ❝The dead sea❞ から付けられていますが、イスラエルでは「塩の海(ヤムメラハ)」と呼ばれています。
この死海の底には、神の裁きにより壊滅した町「ソドム・ゴモラ」があるといわれています。
この海とその周辺は、生物の生息するのに難しい所であり、命の気配すらない「死」を表す事から ❝The dead sea❞ 死海と呼ばれるようになりました。
そこでは、日常、塩の柱が自然にでき続け、それが各地に供給されているのです。(―参考― インターネットで死海の塩を販売もしているようです。)
死海=塩の海。生物が住めない、死を表す場所であり、その死を表す場所「死海」が人々の役に立つ「地の塩」と変えられていくのです。
死がもたらすものが、人々の役に立つものとなるという事です。
まず塩は、清め、消毒、保存、食事の味付け等に使います。
人の食生活の中に塩がなければ栄養不足にもなり病がちになります。
塩のミネラルは、人を健康にします。
義(キリスト)のための死は塩となり、人にいのちをもたらすのです。
ここで、もう一度10節に戻ってみましょう。
「義の為に迫害されている者は幸いです。」
義(キリスト)のために迫害を受け、キリストの死を心で、また体で共有する者は、その死をもって地の塩(人々を生かすもの)となっていくのです。
自己に死にきっていない者、自分に対する思い、欲を捨てきれていない者は、塩になりきれません。
その人は、人々の役に立つ事ができず外に捨てられ、人々に踏みつけられます。13節
義(キリスト)の為に迫害を受ける事で、自分の命をも惜しまず捧げる事ができます。
そして神から「復活のいのち」を得、人々に役に立つ「地の塩」となり、神の栄光を表していく事になるのです。
「義(なるキリスト)の為に迫害されている人は幸いです。
天の御国(神の支配、神の力、しるしと不思議、そして復活のいのち)はその人のものとなり、人々の役に立つもの(地の塩)となっていくのです。」
By ナルド・ホームチャーチ
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2012/03/03(Sat)
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マタイの福音書vol.21「山上の垂訓」
八福の説教 マタイ5章~
『シャローム שלום』
9節「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」
イザヤ書32章18節「私の民は平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む。」
ルカ2章14節「いと高き所に栄光が神にあるように。地の上に、平和が御心にかなう人々にあるように。」
イエス様は、この世や人々との妥協した目先だけの平和や、静寂を保ち、平穏をもたらすためだけに来られたのではなく、神からのゆらぐ事のない「アドナイシャローム」で満たすために来られました。
はじめに、聖書に出てくる平和(原語では「シャローム שלום」)を紹介致します。
① 平和=Peace平穏。静寂。大なぎ。神的世界観ワン・ワールド、一致を願う言葉。
② 和解=交わり、関係が何のわだかまりもなく回復する。
③ 救い=罪から、病から(癒し)救い、様々な問題からの(解放)救い。
④ 安息=rest 霊と魂に安らぎが得られる。イザヤ32:18
⑤ 休憩=brake からだ、肉体を休ませる。
⑥ 回復=recovery 元の状態(罪が入る前のアダム&エバの状態、エデンの園)に戻る。
⑦ 正義=Righteousness 正義と平和は口づけし 詩85:11
⑧ 朝、昼、晩、全てで使えるへブライ語の挨拶の言葉、出会った時の「こんにちは」と、別れの際の挨拶の言葉「さようなら」。
それらを全て含めて挨拶の言葉❝Greetings❞を表します。
また、その他の意味を列挙してみます。
『シャローム』の意味
安全、安心、安泰、太平、穏やか、和解、無事、解放、健やか、いやし、幸福、好意、勝利、栄える、償う、払う、返す、捧げる、善、公義、ことごとく、完成、成就、親しい、仕返し、報復、報い、果たす。等36の意味を記しておきますが、これらの安息、祝福の言葉を、多くの聖書学者、言語学者たちは、このシャローム{שלום}=シン(ש)・ラメッド(ל)・メム(ם)の三つの文字の組み合わせからなる40以上の意味の訳で聖書に記されているようです。
まず、一人ひとりが神との和解「シャローム」を受け入れ、それを受け入れた人々は、この世の君、サタンの王国に「シャロームの剣」で切り込んで行き、勝利を勝ち取っていきます。
彼らは、様々な「シャローム」を流しだし、国々の民族、部族に「救い、癒し、解放、祝福のシャローム」で満たすのです。
「アドナイ・シャローム」は一人ひとりの心の中に宿ってくださいます。
そして、全ての人々を、その場その場にあった、そこに必要な「シャローム(祝福と繁栄、救い、平安、癒し、解放、関係回復、和平、平穏、安息)」で満たしてくださいます。
そして、この世、世界が神の「シャロームשלום」に包み込まれる状態になった時こそ、ルカ2章14節の「いと高きところに栄光が神にあるように。地の上に平和(シャロームשלום)が、御心にかなう人々にあるように。」という御言葉の成就として、神の御国の平和「シャロームשלום」が現されます。
ここに七番目の「神と私たちの関係」(7)神の栄光との関係があり、ここには、私たちに対して ―信仰のテスト― があるのです。
{―参考―イザヤ9章6節で「平和の君」とある箇所は、原語へブル語では「その名は統治者シャローム」=シャローム大臣、シャローム将軍となります。}
すべての「シャローム」の御わざがこの方から私たちを通して流れ出ていきます。
ほとんどの神のミニストリーを現す言葉「シャローム」。
御心にかなう人々(ルカ2章14節)を「シャローム」で守り、サタンの王国にある、あらゆる「シャローム」を奪い取り、切り込んでいく「シャロームの君、(統治者、将軍)」から放たれる神の力のミニストリーです。
山上の垂訓で、イエス様は私達に、高い次元の信仰を教えているのではありません。
主がギデオンに語ったように「わたしがあなたを遣わす。あなたのその力で行きイスラエルをミデヤンの手から救え。」士師6章14節
このように、主は、難しい事を求めてはおられません。
今、私に与えられている力で行けば良いのです。
その時、「全てのシャロームを所有されている方である主なるキリスト」が、人々に流れ出てくださいます。
その時の、私たちの姿は、周りの人々から見て「神の子ども」に見えるため「神の子ども」と呼ばれるのです。
無意識に家族生活の中で、また学校、職場、近所付き合いの中で、何気なく「シャロームなるお方・イエスキリスト」の話題が出てきたり、病人やけが人に祈ってあげたり、祝福してあげるだけでいいのです。
病に伏した人の回復を祈る事や、祝福の祈りを拒む人はそうはいないと思います。
祈りや交わり、分かち合いからイエスキリストを僅かでも紹介し、私たちから「シャローム」が解き放たれた時、そのあとは主、御自身の信仰が働きます。
それが神と私たちとの関係の七番目「神の栄光との関係」であり、最後七番目の―信仰のテスト―です。
9節「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」
『シャローム』をつくり出すお方、『シャローム』の君=統治者、キリストを流しだす者は幸いです。
その人は、この神の『シャローム』を流しだす神の子どもと呼ばれるからです。
さて、次回は、八福の説教のラストとなります「義の為に迫害されている者」を「神の栄光との関係」の続編として一緒に学んでまいりましょう。
By ナルド・ホームチャーチ
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2012/02/25(Sat)
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マタイの福音書vol.20「山上の垂訓」
八福の説教 マタイ5章~
8節「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。」
今回は、「神と私たちとの七つの関係」の(6)三位一体の神との関係から見ていく事にしましょう。
三位一体の神の『父との関係』―安息のテスト―からはじまります。
神は私たちに、父の懐に無条件に飛び込み安息するテストを用意しておられます。
イザヤ9章6節「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
詩篇91篇1~2節
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。
『我が避け所、我が砦、私の信頼する我が神』と」
イザヤ9章6節の後半に記されている『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』を紹介、説明します。
不思議な助言者とは、この世の常識では考えられない神の知恵、神の助言、弁護、完全な守りを持つお方です。
力ある神は、全能の神。敵する者はいない。
永遠の父は、ヘブライ語では、我が父大勇士、英雄(ヒーロー)。
私たちが子どもの時、お父さんはヒーローであったように天の父は永遠に強いヒーローなのです。
平和の君は、次回詳しく記していきますが、平和、安息はヘブライ語で『シャローム』といいます。
君と訳されている言葉は、大臣、司る者、統治者、将軍という意味があります。
これを踏まえて読みますと、平和の君は『シャローム将軍』と言うことができます。
これらの意味を心に刻み込み、そのお方、全能者の陰『我が避け所、我が砦、私の信頼する我が神』の中に宿る(安息する)事について見て行きます。
7kye truths(七つの鍵の真理)を啓示された故ロバート・ユーイン師は、口癖のように「You work and He can’t work. You rest and God can work.」
「あなたが働くと彼(神)は働けない。あなたが安息すると神は働く」と語っていたそうです。
前回までの、神と私たちとの七つの関係と、各テストを通して学んだ事から、自分の権利、プライド、思い、考え、行動等を放棄し、神を真ん中におくテストを受け続けてきています。
そして今回「三位一体の神との関係」の父との関係では、神は父の安息を体験させようと働きかけています。
神が御わざを表す為には、私たちが持つ、肉の思い、肉の力、行動をいかにして封じるかにかかってきます。
マタイ11章28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の所に来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。
29節 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなた方もわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすれば、魂に安らぎがきます。
30節 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
父の安息の中に入る時、神と顔と顔を合わせ、父と共にいて神を体験し、神の働き、神の御わざを見る事となります。
次に『子(キリスト)との関係』を見ていきましょう。
ここで神が私たちに用意しているテストは、
―キリストのヴィジョンに忠実か?否かのテスト―です。
ここは、旧約聖書の詩篇24篇を開いて見ましょう
3節「誰が主の山に登りえようか。誰がその聖なる所に立ち得ようか。
4節 手が清く、心が清らかな潔い(いさぎよい)者、その魂をむなしい事に向けず、欺き誓わなかった人。
5節 その人は主から祝福を受け、その救いの神から義(キリスト)を受ける。
6節 これこそ神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。」
次に、新約聖書ヨハネの黙示録14章。
1節「小羊がシオンの山に立っていた。
また、小羊と共に144000人の人たちがいて、その額には小羊の名と小羊の父の名とがしるされていた。」
4節「小羊の行くところには、どこへでもついて行く、彼らは神、及び小羊に捧げられる初穂として、人々の中からあがなわれたものである。」
5節 「彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷の無いものである。」
ここの箇所で分かるように、義(キリスト)なる小羊にどこまでも忠実についていくか否かのテストです。
心の中で「ああしよう。こうしよう。」と考える事無く、いつもキリストを見てキリストから離れずについて行く人であるようにと、整えられるテストの場所なのです。
私たちキリストを信じ救われた者たちは、霊のイスラエルといわれています。
イスラエル={ヤシャール+エル}
「神の王子」「神、戦う」「真っ直ぐな正しい神」等の意味があると言われています。
{ヤシャール+エル}は、神を表す意味で『真っ直ぐな、純粋、一途な神』と、神の清さを一段とアピールした意味なのです。
私たちイスラエルは『神に純粋、一途』となります。
私たちは、神の目から見て『神に純粋、一途な霊のイスラエル』となっているのです。
私たちは、神の目から見て『神に純粋、一途な霊のイスラエル』となっているのです。
旧約聖書におけるイスラエル人、ユダヤ人たちはヤコブといわれています。
彼らは、神の選民としての誇りをもっています。
彼らの多くはキリストを受け入れていないのが心苦しいところですが、彼らは、あらゆる偶像の神々には膝をかがめない、清く保たれている人種です。
彼らユダヤ人、イスラエル人たちは、終末の時、大艱難の終わりを迎えようとする中、メシヤなる主イエスキリストの地上再臨の時、御顔を仰ぎ見、『神に、純粋一途なイスラエル』として救いを得る民となります。
最後に『聖霊との関係』に入ってきます。
父との関係、子との関係で満たされた時、安息の中で神を見、小羊にどこに行くにも付いて行き、キリストの清さに満たされていきます。
そこでイザヤ60章1~4節「起きよ。光を放て。あなたの光がきて、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」
神の恵みにより、私たちから聖霊の光を放つ時がきたからです。
周りの人々はあなたの神の清さの光に、磁石に引き寄せられるように集まってきます。(イザヤ60章4節)
ここで、神は私たちに―恵みのテスト―を用意しています。
『三位一体の神と私たちとの関係』をおさらいしつつ見てまいりましょう。
父との関係―安息のテスト―
父の中に安息して顔と顔を合わせるほどに、密に交わりを持ちます。
子との関係―キリストのヴィジョンに忠実か否かのテスト―
子なるキリストに心(魂)すべてを明け渡し、小羊の行くところ、どこへでも忠実について行きます。
聖霊との関係―恵みのテスト―
聖霊によって清さのオーラ(光)が出てくるように内側から溢れ、人々を引き付けていくのです。
出エジプト33章11節で神はモーセと顔と顔を合わせて40日語られました。それにより、シナイ山から下りてきた時にモーセの顔の肌は光を放っていたのです。出34章29~35節
これは、人の働きによるものではなく、一方的な神の恵みによる清い光がその人から溢れ出て放っていくのです。
その光は、地上の人々の心を捕らえ、集まってくるのです。
8節「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。」
(6)三位一体の神と私たちとの関係からのまとめは、
「神に向かって真っ直ぐな清く一途な魂を持つ者はなんと幸いでしょう。
その人は父の安息の中で顔と顔を合わせて神を見、小羊が行くところどこまでも離れる事なく付いて行き、神の恵みにより清い光(オーラ)を放つ者となるでしょう。」
次回は、「平和をつくり出す者は幸いです。その人は神の子と呼ばれるからです」を「神と七つの関係」の七番目の関係から(7)主の栄光との関係を見ていく事に致しましょう。
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2012/02/18(Sat)
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マタイの福音書vol.19「山上の垂訓」
八福の説教 マタイ5章~
マタイ5章7節「憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。」
この「憐れみ深い者」を、普通に読んで理解するには難しいと思います。
いつものように、聖書から「憐れみ」を見てみましょう。
詩篇51篇1節「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かな憐れみによって、私のそむきの罪を拭い去ってください。」
詩篇67篇1節「どうか、神が私たちを憐れみ、祝福し御顔を私たちの上に、照り輝かしてくださるように。」
マタイ9章36節、新改訳「また、群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて、倒れている彼らをかわいそうに思われた。(深く憐れまれた。口語訳)」
今回は「憐れみ」を、「七つの神との関係」の五番目、
(5)「神の計画と私たちとの関係」から見てまいりましょう。
人には情深い人、あっさりした人、冷淡な人と色々いますが、その中で「憐れみ深い者」とは情深い人に思われがちになります。
そこで7key truths の「神と私たちとの7つの関係」の定規をあてはめ、五番目「神の計画と私たちとの関係」で見ていく事にします。
「神のご計画」は人と共に住む事です。
出エジプト25章8節「彼らが、わたしの為に聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」
出エジプト29章45節「わたしは、イスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。」
第一列王記6章13節「わたしは、イスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てる事はしない。」
エレミヤ29章11~14節「わたしはあなた方のために立てている計画をよく知っている。中略
-主の御告げ- わたしがあなた方を追い散らした先の全ての国々と、全ての場所から、あなた方を集める―主の御告げ―」。
「神のご計画」により、神の幕屋がモーセを通してつくられ、主はそこに住まわれました。
同じ様に、私たち人の体も、神が住まわれる幕屋としてつくられ、キリストを信じる全ての者の体(幕屋)の中に、住んでおられます。
そして神はイスラエルの民と共に住むのです。
{*参考イスラエル(ヤシャール=真っ直ぐな+エル=神)であり、正しく、純粋、真っ直ぐな神であり、また、神に対して純粋、一途を表すことから「霊のイスラエル」と言われていると私は理解しています。}
また、「陶器師と粘土」から、陶器を造る工程の中で、良くこねられている粘土を、ろくろの中心にセットして、器の形を整えていく工程に似ています。
ここの工程は、簡単なようで難しい作業です。
まず、粘土をろくろの中心にセットしなければなりません。
ちょっとでも中心から外れていると、ろくろを回した時、器は壊れ、あるいは歪(いびつ)になり、失敗してしまいます。
故ロバート・ユーイン氏は「神の定めの中にある人は神の御心の真ん中にいる。」と言っています。
神の定め、神の幕屋の中にいる人は、神の御心の中心にいるのです。
魂(心)を包み隠さず神に明け渡している人は、心の中の人間的な情に左右される事はなく、霊におられるキリストの心を共有します。
ここの「神の計画と私たちとの関係」に用意されているテストは ―所有のテスト― です。
このテストは、私たちの心にある欲や、持ち物、思い、考えに至る全てを神に明け渡すテストです。
思いの中にある良心も含まれます。
私たちの心のテーブル(ろくろ)の上を一掃した時に、はじめてその中心に神が、神の御心をセットします。
その人はキリストを真ん中に置き、神の心を共有していくのです。
そこを基本におきつつ「憐れみ深い」を、七つの関係のおさらいをしながら見ていきましょう。
1.御言葉との関係の中で、飢え渇きをもって心が整えられ、
2.心の中の欲、自己中心的な考え、誘惑、罪から分離(聖別)され、
3.神の権威に対して全き服従を学び、
4.心が義なるキリストで整えられ備えられていき、
そして今回、
5.私たちの所有している物と思い(心)を主に明け渡し、神の御心をテーブル(ろくろ)の中心に置く、というテストが展開されていきます。
神の御心が私たちの心の中心に据えられた時、魂にある人情、友情、愛情に妨げられる事が無くなり、御心からくる神の憐れみが私たちから流れ出ます。
それが、神の御心の「憐れみ」、「神の憐れみ」なのです。
私たちの思いが少しでもあれば、神が計画された器として中心に置かれる事はできません。
私たちの心のテーブル(ろくろ)の上にある思いの全てを、神に明け渡す事を学ぶ必要があります。
御心の真ん中にいる人は、もともと地上には存在しない「神の憐れみ」を体験する事になります。
「神の憐れみ」は、私を愛し憐れみ、そこから人々を愛し憐れむのです。
その「神の憐れみ」を、心の中心におく者(受ける者)は、「神の憐れみ」が、真ん中に据えられ、人々に向い、流れ出る事になるのです。
マタイ5章7節「憐れみ深い者は幸いである。その人は憐れみを受けるからです。」
一つの文章としてまとめますと、
{なんと幸いでしょう、神の御心を真ん中に置く事ができる人。
その人は「神の憐れみ」が心の中心に据えられて、心の真ん中から尽きる事のない「神の憐れみ」を受け、「神の憐れみ」により人々を憐れむ事ができる者となるからです。}
By ナルド・ホームチャーチ
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2012/02/11(Sat)
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マタイの福音書vol.18「山上の垂訓」
八福の説教 マタイ5章~
マタイ5章6節「義に飢え渇いている者は幸いです。
その人は満ち足りるからです。」
今回は義について見てまいりましょう。
初めに旧約聖書エレミヤ23章5~6節を読んでまいりましょう。
{「見よ。その日が来る。―主の御告げ― その日わたしは、ダビデに一つの正しい若枝をおこす。彼は王となって治め、栄えてこの国に、公義と正義を行う。」
その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。
その王の名は、「主は、わたしたちの正義(アドナイツィドケイヌ)」と呼ばれよう。}
これは、メシヤ預言の箇所です。
ダビデの若枝、キリストが来られ、全き義によって生涯を歩まれ、十字架の刑により人類の罪のあがないを完成されました。
エレミヤ23章5節で「彼は公義、正義を行う」と言うところを原語から直訳すれば、『彼は真理(十字架による義)によって公義(全ての民を公平にさばく)を行う』と言う文言にもなります。
それによって6節『主は、我々の義(正義)アドナイ ツィドケイヌ』と呼ばれるのです。
義の判定基準は、十字架です。
十字架こそ公義であり正義なのです。
全人類がその、全き『義の十字架』を受け入れるか、受け入れないか、二つに一つしかありません。
中間はありません。
全き基準の十字架が完成された現在、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、先進国に属する国民であれ、未発達地帯、山奥深い少数部族であれ、関係なく『義の十字架』が基準となってすべての人類が裁きの中に入ります。
十字架を心に受け入れている全ての人は、その信仰により『義の十字架』の中に入れられています。
十字架の主を受け入れていない全ての人は、おのおの、その行いに応じて公平な神の義の裁きを受けることになります。
さて、「神と私たちとの関係」の四番目、(4)「神と個人的取り扱いとの関係」―準備のテスト―から「義に飢え渇いている者」を見てみましょう。
義に飢え渇くとは、義なるキリストを求める事です。
神との個人的な関係により、イエス様を求め、神との親しい関係の中に入った時、自動的に「義なるキリスト」に満たされていきます。
ローマ8章2節「いのちと御霊の原理」によって義の体に準備され、いのちに満たされる事により、「罪と死の原理」から解放されるのです。
一言でまとめると、罪と死の原理とは=肉に従って生きる事によれば、その行く末は死であるという事です。
人の持つ肉の力、知恵、知識を持ってしても罪と死から逃れる事の出来る人は誰もいません。
それに対して、いのちと御霊の原理とは=イエスキリストのみが罪と死に打ち勝った義なるお方だという事です。
私たちは勝利されたキリストの中におかれ、復活のいのちにつつまれています。
そして、死に打ち勝ったキリストが、私たちの霊の中におられ、私たちを霊の中から復活のいのちにあずからせてくださいます。
この原則は、神側が私達に対する、一方的な「いのちと御霊」の提供をしているという事なのです。
出エジプト14章で紅海を分け、モーセはイスラエル二百万とも三百万人ともいわれた一国家と、それに伴う多くの(少なくとも数百万はいたであろう)家畜を引き連れ渡って行きました。
ヨシュア3章17節では「ヨルダン川の真ん中で、分けられた川の乾いた地を通り、渡り終えるまで臨在の箱は留まっていた。」
これら二つの歴史的箇所は、イエス様が十字架の死と黄泉の深みで、私たちの為、私たちが通過し終えるまでそこに留まった事を表しています。
イエス様を信じた全ての者が一人として滅ぶ事無く、いのちの中に入れられる(ヨハネ3章16節)事を表しています。
イエス様の死と復活を表したと同時に、キリストの中にいる私たちも同じく死と復活をも表しています。
雲の柱、火の柱、臨在の契約の箱に付き従ったイスラエルの民は、神の守りの御手の中にいて、臨在に導かれ紅海を渡り、シナイ半島内の荒野を四十年間旅し、ヨルダン川を渡りました。
海の中、水の中を渡るという行為は「罪に死ぬ」行動です。
今のキリスト教会では、水のバプテスマを表わします。
海、川を渡り終えた事は、死からのよみがえりをあらわし「罪に死に、義に生きる」事なのです。
それは、キリストと共に死に、キリストと共によみがえった、そしてキリストの臨在の中で私たちは生かされ、キリストの復活のいのちに満たされる事を意味します。
私もクリスチャンになった当初は、イエス様を信じ、救われてクリスチャンになればさばかれないと信じていました。
しかし、真実は、全ての人は例外なく義の裁きを受けるという事です。
その中で、イエス様を信じ救われた私たちクリスチャンは、キリストの十字架の中にいて、今も、また、これからも義の裁きを受け続けるのです。
創世記7章に「ノアの箱舟」が記されています。
ノアは、三人の息子たち(セム、ハム、ヤペテ)と共に百年かけて箱舟をつくり上げ、その箱舟の中に乗りこんだ後、天の窓が開き、天の源と地の淵が裂け、地上に洪水が臨みました。
四方八方、逃げ場の無い裁きを、箱舟を含め地球全体が受けたのです。
地上の民同様に、箱舟の中でノアとその家族も洪水の裁きを受けました。
同じように私たちも、イエス様という「十字架=箱舟」に、信じた瞬間に入れられ、義の裁きを「十字架=箱舟」の中で守られつつ受ける事となるのです。
私たちには、罪を犯す性質がありますが、その犯した罪、将来犯す全ての罪はキリストの十字架によりあがない完了しました。
それにより神から見た私たちは、罪を犯す事のできない清い体(第一ヨハネ3章6節)として映し出されています。
6節「義(なるキリスト)に飢え渇いている者は幸いです。
その人は義(キリストに)満ち足りるからです。」
神は、人類全ての神、また全ての被造物の神です。
人が信じようが信じまいが、人類全ての神です。
エレミヤ23章6節にある「主は我らの義」と言うのは、全ての被造物から見た「主『アドナイ』」であり「我々の義(正しいお方)」という事です。
この(4)神と個人的な関係の―準備のテスト―において、神は、私たちに義の衣を準備されています。
義のキリストを信じないもの全ては、各々の行いに応じた神の義による裁きを受ける事になりますが、信じる全ての者たちは、義(義の十字架)の中にいて、義に満たされ、義の証しとして義の衣が備えられ、義の裁きは受けても、その衣により守られ、次の「神と私たちとの関係」の段階に移されていきます。
次回は、「憐れみ深い者」を神との関係の(5)「神の計画との関係」から見ていこうと思っています。
By ナルド・ホームチャーチ
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2012/02/04(Sat)
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マタイの福音書vol.17「山上の垂訓」
八福の説教 マタイ5章~
マタイ5章5節「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」
八福の説教、三番目「柔和な人」にはいってきました。
なぜ、「柔和な人」が「地を受け継ぐ」のでしょうか?
まず、「柔和な人」を聖書から見てみましょう。
民数記12章3節「さて、モーセという人は、地上の誰にもまさって、非常に謙遜(柔和)であった。」
詩篇37篇11節「しかし、貧しい(柔和な)人は、地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」
イザヤ29章19節「へりくだる(柔和な)者は、主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって喜ぶ。」
マタイ11章28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私の所に来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。
29節 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなた方もわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすれば、魂に安らぎがきます。
30節 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
聖書から柔和を見ていくと、
『柔和』=「へりくだり」「謙遜」「貧しい」
という言葉が並行して入ってきます。
次に、「地を受け継ぐ」とはどういう意味で、柔和とどの様な関係があるのでしょうか。
そこを解き明かす鍵を見ていく事にしましょう。
モーセは主という権威に対して完全に服従する事により「この地上の中でモーセほど謙遜(柔和)な者はいなかった」と聖書に記されるほどの人格者でした。
ヨシュアはモーセと言う権威に服従した従者であり、モーセなき後、主の軍の将(ヨシュア記5章13~15節)に服従した時に、カナンの地の国々を征服していきました。
このカナンの地は、主がアブラハムに約束した地であり、その地をヨシュア率いるイスラエルが相続した地となりました。
神と私たちとの関係の三番目の「神の権威との関係」で神は、服従のテストを用意されています。
「柔和」に戻って見てみましょう。
聖書の原語から、「柔和」の意味は、「力を制御された。」という意味からきています。
これは、馬の調教にたとえられるといわれています。
いくら有能で速く、また力強い馬であっても、実力を発揮するには、その上に乗る主人の手綱に服従し、素直に従うか否かにかかってきます。
主人の言うことを聞けなければ、到着したい時間や場所に正確に着かない事になり、主人の計画を狂わせ、主人に不愉快な思いを持たせる事となるのです。
主人の手綱に合わせ、速く走る時は速く走り、ゆっくり進む時はゆっくりと進み、止まる時はしっかり止まる。
動けの指示があるまで動かない。
トイレも決められた時、許された所定の場所までがまんする。
私たちも同様に、主人(キリスト)に服従を学ぶ必要があります。
主人の思い通りに動く者となるならば、主人はどこに行くにもその人を連れて行くでしょう。
いつも主人の傍にいて、主人の行動(御わざ)を見続ける。
そのうちに主人が何も言わなくても、主人の次の行動(働き)が分かるようになります。
そうなると、ますます、主人はその人と一緒に出て行くでしょう。
その人は、神の御心(神の定め)の中を歩んでいるからです。
そして、柔和な主人といつも共にいる主人の従者は、柔和な主人に似るものとなっていくのです。マタイ11章28~30節
柔和な人とは、100%主人の思いのままに動き、従う忠実な人(しもべ)なのです。
(1) の神の御言葉との関係で、従順のテストがあり、(2)では世(環境)との関係、分離のテストを見てまいりました。今回は(3)神の権威との関係の、服従のテストとなります。
そこで従順と服従の違いを簡単に述べていきます。
従順は師弟関係にたとえられるでしょう。
家族内での上下関係、学校、職場における上下関係、それらの中で教えられていくものです。
衣食住を共にして、行動、思い、考えを共有する事によって身に付いていきます。
それに対して服従は、主人としもべ、主人との奴隷的関係であって、旧約時代では普通にあった制度で、(今、世界では無くなってきていますが)多くは、お金で売られ、買われた人なのです。
お金で売られてきた奴隷たちは、主人のために尽くす使命があり、起きてから寝るまでのすべての時間(あるいは、就寝後もいつ起こされるかわからない)
四六時中、主人に対してピリピリとアンテナを張っていなければならないのです。
旧約の時代、へブル人の奴隷は7年目に無償で自由の身になる日まで辛抱し、仕えなければならなかったようです。出21章1~11節
次に奴隷の所有物について述べましょう。
主人の所有率と、奴隷の所有率の対比は主人100:奴隷0 です。
奴隷にはプライバシーさえもありません。
レビ25章55節に「イスラエルは主のしもべである。」とあります。
この御言葉から示される事は、私たちすべてが主のものであり、主のしもべ=奴隷だと言う事です。
私たちはその自覚を持つ事が大切だという事です。
これをわきまえつつ、身も心も、直ぐな清い者として、心からの感謝、賛美と礼拝(心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知力を尽くして主なるあなたの神を愛しなさい。申命記6章5節)を主に捧げて参りましょう。
これこそ主が喜ぶ霊の捧げものなのです。
私たちが神へ服従する時は、全ったき服従の模範者イエス様がいつもくびきを共にしておられるのです。
「わたしは心優しく(柔和で)、へりくだっているから、あなた方もわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、魂に安らぎがきます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11章29~30節
へりくだって柔和な人の魂には、安らぎ、安息があるのです。
別の見方をすると、安らぎ、安息がある人は柔和な人と言ってもよいでしょう。
くびきを共にする時、キリストの平安を得、次第にキリストの柔和もモーセと同じように、私たちに伝わって来るのです。
そして、私たちは主の奴隷としての認識を深め、ヨシュアのように主の軍の将(ヨシュア記5章13~15節)のすべての指示に忠実に従い、全ったき服従の日々を重ねる時に、この世の君が支配している国々を奪い返し、約束された地を相続する事になるのです。
マタイ5章5節「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」
柔和なキリストとくびきを共にし、服従を学ぶ中に柔和が備わっていきます。
誤解のないように付け加えますと、肉の体を打ち叩かれて服従するのではなく、キリストのくびきという御心の中に身をゆだねる事です。
するとキリストが所有している地(御国)を、その人も共に受け継ぐ事となるのです。
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」
「わたしは心優しく(柔和で)、へりくだっているから、あなた方もわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」
私たちは、柔和でへりくだっているイエス様とくびきを共にして、柔和を学び、地(御国)を継ぐものとなりたいと願っています。
By ナルド・ホームチャーチ
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2012/01/28(Sat)
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マタイの福音書vol.16「山上の垂訓」
八福の説教 マタイ5章~
4節「悲しんでいる人は幸いです。」
この山上の説教を、「神と私たちの七つの関係」から見ています。
前回は「心の貧しい者は幸いです」を(1)「私たちと神の御言葉との関係」から紹介しました。
今回はマタイ5章4節「悲しんでいる人は幸いです。その人は慰められるからです。」の聖書の箇所から、(2)「世(環境)との関係」を通して見てまいります。
私たちがイエス・キリストと御言葉との関係の中で従順の姿勢を持つようになって、神の子として新生すると、次に訪れる段階、神との関係は、この世(環境)の中で悲しみを体験する事になっていきます。
おかれた環境の中で、最初に救われた人たちは、家族や世の友だちから理解されない事が多いでしょう。(ヨハネ15章18~21節)
又、「私について来なさい」と言われた時に、自分の大事な職業を捨て、家族を捨て、郷里を後にして、キリストに従っていった弟子たちのように、(マタイ4章18~22節)一人ひとりが、違った環境の色々なケースにおける分離のテストがあります。
(1)「神の御言葉と私たちとの関係」により、心貧しき飢え渇きをもって、御言葉なるお方に従順に従った人たちには、御国(の支配)はその人のものとなります。
従順のテストを通されて次の段階は「世(環境)との関係」に入っていきます。
ここの関係では、イエス様を取るか、家族を取るか、仕事を取るか、また、趣味や、友人知人との付き合いを取るか、日々の生活、環境の中で選択を迫られています。
従順のテストで整えられた人たち、神から召し(呼び)出された者たちは、この二番目の「世(環境)との関係」において、罪と悪、誘惑と欲望から分離されなければなりません。
まず、イエス様により近く従っていくと、自分の中の魂(心)にある醜い考えや、誘惑に弱い心、罪と罪意識に、自分自身の無力さを悲しむようになります。
「私は、本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるでしょうか」ローマ7章23~24節
先ず、わたし達の至聖所なる霊におられるイエス様を見てみましょう。
イエス様は「悲しみの人で、病を知っていた。」イザヤ53章3節。
私たちが、愛する家族たちとの関係が破断をきたし、分裂する事は、私たち以上に、内におられる平和の君(イザヤ9章6節)なるイエス様には、裂かれる様な「心の痛み」があるのです。
地上の人間の中で、この方ほど家族の分裂、別れの痛みを体験した人はいません。
イエス様は十字架上で、父との関係が引き裂かれました。
ですから、私たちの悲しみ、痛みを一番理解する事が出来るお方です。
今おかれている環境で回りの事を一切気にせず、無条件でイエス様のふところに飛び込んでいきましょう。
神の御心は『主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます。』なのです。使徒16章31節。
今、私たちがイエス様を信じ、家族と分離したのは、後に私たちの家族が残らず救いに至るための初穂なのだと、自覚しましょう。
私が、イスラエルから帰って来た時、我が家ではクリスチャンは私一人だけでした。
父親から勘当されましたが、2年後、まず母が救われました。
それからおよそ3年後、上の妹が救われ、父も信じ、続いて下の妹も救われて最終的に家族全員がクリスチャンとなったのです。
正直なところ、思い起こしてみると、恥ずかしいのですが、私は家族に対して伝道をしませんでした。
いいえできなかったのです。
ですから、なぜ、家族全員がクリスチャンになったのかは分かりません。
しかし、神が約束された御言葉「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。使徒16章31節」は、私たちが家族に働きかけをしなくても実現させる神の御心、神の信仰だという事です。
次に、わたし達の魂の領域が、サタンと、わたし達の欲望、キリストの戦場である事は、皆さんも承知していると思います。
私たちの生まれながらにして持つ心 (知性、感情、意思) の中には、サタンの誘惑により、善悪の木の実を食べたアダムとエバからはじまり、罪(sin)の種が植え付けられ利用され、物事を自分で判断する者となってしまいました。
私たちが困っている、悩んでいる人々に対して同情心をいだいても、そこにキリストの悲しみが流れて来ているか、否かは、その人の心の思い(欲、趣味、楽しみ)を、どれだけキリストに明け渡しているかにかかっています。
{参考-ガラテヤ5章24節「肉を、様々な欲と情と共に十字架に付ける」。}
心の思い、欲を明け渡している人は、人間的な同情心さえも主に明け渡しています。
その人はキリストの思い、喜び、そして悲しみも共有します。
家族を愛している私たちは、家族を取るか、キリストを取るか、心を引き裂かれるような難しい選択に迫られています。
しかし私たちの心の痛み以上にイエス様は心を痛め「(後の事は私にまかせて、家族はまかせなさい。使徒16章31節)そして、私についてきなさい。」マタイ4章19節。と言われています。
そして「主の手のひらにはあなたの名(フルネーム)が刻み込まれている。イザヤ49章16節」(―あなたもあなたの家族も救われます。―使徒16章31節)
神の手のひらに刻み込まれているという事は、主と一体となっているという事です。イザヤ49章16節と使徒16章31節は、神が確実に成就させる約束の御言葉であると同時に、神の信仰の預言なのです。
家族の中の初穂として救われた私たちは、始めの内、身内の反発をかいますが、神は、他の方面から、不思議な力をもって、家族、身内に働きかけ、救いに入れてくださいます。
私たちの中にある、はじめの肉親との決別の悲しみは、後に、永遠の家族を得るための一時的な決別なのです。
全ての人の悲しみを知るイエスキリストが、彼を信じる全てのものに、「平和の君」として家族を救いに導き永遠に続く平和の家族と変えてくださいます。
結論を申します。
神に真剣に近づこうとする時、キリストに対し一途に従おうとする時には、必ず肉の弱さ、自分の中にある罪の性質が、神の聖なる光に照らされて露わにされていきます。
その時、罪の力に勝つ事ができない肉の弱さを実感していき、自分を「どうしようもない人間だ!」と嘆き悲しむようになるのです。
そして、私たちが持っている様々な欲と誘惑、罪から分離されていく時、神の聖別が私たちの環境の中に働き、家族に、また友人知人に救いが及んでいきます。
このテストは、神の聖なる光に照らされる事による―分離のテスト―なのです。
何よりも『神』に、『キリスト』に従った事による聖別と『神』自らの働き(御わざ)を見る事になるのです。
これを感じる事ができた人は、(3)神の権威との関係の段階に進んでいく事になります。
<悲しんでいる人は幸いである。その人は慰められる。>
神の御心の中を歩む時、聖別による魂(心)の中にある悲しみ、苦しみにあえいでいる人は幸いです。その人は、悲しみを知り尽くした「悲しみの人イエスキリスト」の御手の中で慰められます。
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2012/01/21(Sat)
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マタイの福音書vol.15『山上の垂訓』
八福の説教 マタイ5章~
3節「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
この山上の説教を、神と私たちの七つの関係から見ていきます。
今回は(1)「神の御言葉との関係」です。
始めに旧約聖書から何ヶ所か「貧しい」を見てみましょう。
*詩篇69篇32~33節 主は貧しいものに耳を傾ける。
*詩篇25篇9節 主は貧しいものを公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
*イザヤ61章1節「神である主の霊が私の上にある。
主は私に油をそそぎ、貧しいものに良い知らせを告げ知らせ、心の傷ついた者を癒すために、わたしを遣わされた。」
心が貧しい者とは「神、主に出会う事に切なる餓え渇きをもっていて、御声、御言葉に聞き従う人」の事です。
始めに、イエス様は、私たちに教えて下さっています。
私たちの心が、純粋な神の御言葉に飢え渇き、神の御声、御言葉に聞き従うか否かを従順のテストを通して見られます。
マタイ6章33節「神の国とその義を、まず第一に求めなさい。そうすれば、全てのものは添えて与えられます。」
神の国とその義(義については後日説明いたします。)を求めた時、主は、私たちに御国(全てのもの)をプレゼントしてくださいます。
そこで、御国を見ていきましょう。
御国とは、天において住む為の(楽園としての)場所だけではありません。
「御国が来ますように」と、主の祈り(マタイ6章9~13節)のはじめにあるように、主のみ心、ご計画は地上に御国を置く事です。
天の御国は、神が支配される国であり、神の御心のままに存在し、神の統治が永遠に続く国です。
バプテスマのヨハネの宣教、そしてイエス様の始めの福音宣教も「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」と語りました。
荒野で「主の道を備えよ!」と呼ばわったバプテスマのヨハネと、父へ通じる道「わたしは道である」と語られたイエス様。
これらの備えによりイエス様を信じる全ての者が御国へと導かれ、御国を与えられ、御国の中で生きるのです。
神の御心は、預言者たち、御子を通し弟子たちに、そして御子を信じる全てのものに、御国とは何かを教え、御国の力を見て、体験し、流し出し、救われ、癒され、悪霊どもを追い出し、御国を体感させました。
このようにして、神が支配される御国が、この地上に広がったのです。
それが、使徒たちの時代に現われた天の御国の栄光でした。
御言葉の力がこの世の君の世界に切り込み、悪の力を排除していったのです。
使徒たち、弟子たち、イエス様を信じる者たちは、飢え渇きを覚え、切に御国の訪れを待望していました。
神の御言葉に、飢え渇きをもって、「子犬でも食卓から落ちるパンくずは、いただきます。」と言う低い姿勢は、御国の祝福を受け継ぎます。
弟子たちは猟師や取税人といった、幼い時からまともに教育も受けず、聖書の知識も持たない者たちでした。
彼らには、イエス様から語られる事、全てが新鮮で、その生きた御言葉を飢え渇きをもって学びました。
イエス様のなされる御わざを見、その御言葉に聞き従いました。
御言葉に飢え渇く時、御言葉の現われは、使徒たち、弟子たち、イエス様を信じる者たちから御国の力が流れ出て、超自然的な神の力となって多くの人々の中に表われました。
無学、無力な者、何の取り得もない者は、ただ神に請い願うほかありません。
使徒たち、弟子たちは御国に飢え渇き、御国の力を支配されているキリストを求め祈りました。
すると、使徒行伝2章に記されているように聖霊が舌のような形となり弟子たちの上にとどまりました。
ここから天の御国の支配がスタートしたのです。
ある日の午後三時ごろ、エルサレムの宮に入るため美しの門に使徒ペテロとヨハネが入ろうとしたところ、生まれつき足のなえた男が置かれていて、彼らに物乞いをしました。
「金銀は私には無い、しかし、私にあるものをあなたにあげよう。ナザレのイエスキリストの名によって歩きなさい。」使徒3章1~6節
これも、使徒たちを通して行われた神の御国の支配です。
まず、「金銀はわたしにはない」との発言から、使徒たちの謙虚さを伺い知る事ができます。
お金持ちなら、いくらかのお金を物乞いする男に渡して門に入るでしょう。
更に親切な人は、病院に連れて行ったり、薬代を余分に与えたりするかも知れません。
哀れな人を前に「私たちは、お金は持っていません。」と言う事は、僅かなプライドが障害となり、ちょっと勇気がいると思います。
しかし、使徒たちは、胸を張って表明しました。
そして、もう一つ、「ナザレ人イエスキリストの名によって歩きなさい。」
ここでいうナザレ人は、以前(マタイの福音書vol.02)も述べたようにイスラエルの中で低い民族、部族に属していたのです。
しかし、「心の貧しい者は幸いです」の語句から見てみますと、ペテロとヨハネは地上ではお金がなく、貧しい、この世の地位、階級から見ても蔑まれた低い地域、部族出身(ガリラヤ)でした。
その彼らがさらに差別されていた、ナザレ人と呼ばれたイエスの御名により神の御国の力がその男に臨んだのです。
彼の右手を取って起こすと、男の萎えていた足とくるぶしはたちまち強くなり、踊り上がって真っ直ぐに立ち、歩き出した。
そして、歩き回り踊りながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入っていったのです。使徒3章7~8節
(-参考①-
*家族、親戚の中で体に不具のある者がいたら、その者は宮の中には入れず、一行が宮に入っていく時には、門の外で待っていました。
また、物乞いの男の場合は生活の為、門の外に置かれていましたが、使徒たちから癒しを受け、喜び踊り、飛び跳ね、はれて使徒たちと念願の宮の中に入って行きました。
-参考②-
* 旧約モーセの律法時代から貧しい者に施しをする習慣はあり、宮詣をする者たちは施ししている所を神と人々にこれ見よがしに見せつける行為の一つでした。
門の入り口に至るまで施しを乞う不具者たちの長い列が並び、各自の不具合をアピールし、施しを受けていました。
ただし、イエス様は「施しをする際、右の手のする事を左手に知らせるな。」―マタイ6章3節―と忠告しています。)
天の御国は、キリストを信じる者たちが、キリストと共に愛と力の統治を行使させる世界なのです。
それは、御心に従って思う事、願う事が瞬時にして実現する世界です。
地上を歩くように水の上を歩く事もでき、神が行けと命じた場所に瞬間移動さえもできます。
壁をすり抜ける事も、山を動かす事も、神が支配される御国では日常茶飯事に行われます。
神の御心の中で、全て無駄なくスピーディーに行なわれていきます。
このように神の御国は、この世の中にあって、ありえない、不思議な事ばかりですが、それらは当たり前に行なわれていきます。
これが天の御国、神の支配です。
イスラエルには、前の雨(秋口に1~2ヶ月)と後の雨(春先に1~2ヶ月)があって梅雨のような雨季があります。(秋の雨が終わって春の雨が降り始めるまでの間、2~3ヶ月は、一旦雨は上がります。)
ヨエル書での、「前の雨と後の雨を終わりの日に降らせる」とはどう言う事でしょうか。
梅雨やスコールのような雨が降ることを意味していますが、前の雨は、使徒たちが体験した初めの聖霊降臨。
後の雨は、これから世の終わり(終末の時代)にかけて使徒たちの時代に降ったごとく、聖霊の雨が再び地上に降る事を意味します。
歴史を振り返って見ますと、ペンテコステの日からローマがキリスト教を国教とするAD392年、四世紀の終わりで前の雨はいったん止みました。
AD1517年十六世紀にルターによる宗教改革から聖書の真理が徐々に回復していき、AD1901年にアメリカのカンザス州にある小さな聖書学校で一人の女性信者に異言をともなう聖霊が下り後の雨が始まり、聖霊運動が世界に広がっていき、今に至っています。
使徒たちの時代が前の雨であるなら、少なくとも使徒たちの時代に降った聖霊の雨と同等に、今降り始めている聖霊の雨がこの世の終わりまで降り続けることになるのです。
第二コリント12章9節「わたしの恵みは、あなたにとって十分である。というのは、わたしの力(御国の力)は、弱さの内(心、魂が砕かれたその時に)に、わたしの力は完全に現れるからである。」
私たちの内に御言葉なるお方がおられます。
私たちが、心砕かれ御言葉なるお方に従順に従う時、その御言葉により整えられていきます。
そして、私たちが弱くなるほど、心が砕かれていくほど、また心が貧しいくなり飢え渇くほど、神の御国の力が現れる事になるのです。
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2012/01/14(Sat)
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マタイの福音書vol.14 「カルバリの真理」
二週にわたって、マタイ4章10節『神である主を拝み、主にだけ仕えよ』の御言葉から「神への礼拝」を見てまいりました。
12節からイエス様の公生涯がスタートします。
イエス様の公生涯を[7key truths]の中の四番目「カルバリの真理」から見てまいります。
マタイ一章で、一番目の「神の定めの真理(または、幕屋の真理)」を見てまいりました。
マタイ二章では、二番目「安息の真理」を見ました。
マタイ三章からバプテスマのヨハネを通して三番目「勝利の真理」を見る事ができました。
そして今回、マタイ四章からイエス様による[7key truths]の四番目である「カルバリの真理」が展開されていきます。
この[7key truths](七つの鍵の真理)は、私たちに、聖書から深い神の啓示を教え、ひも解いている貴重な重要な真理です。
しかし、これらは深い啓示であるため、私に与えられた啓示の中で理解し得た範囲内で、少しづつ紹介して行こうと思っています。
マタイ4章15~16節に、旧約聖書イザヤ9章1~2節から引照された預言の成就が記されています。
『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸(ヨルダン川のかなた)、異邦人(諸国の民)のガリラヤ。暗闇の中に座っていた(はずかしめを受けた)民は、偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた(住んでいた)人々に光が昇った(照った)。』
ゼブルン、ナフタリの地とあっても一体どこなんだろう?と思われるでしょう。
私もイスラエルに一年四ヶ月住んでいましたが分かっていませんでした。
それもそのはずで、旧約時代の十二部族がイスラエルの国で、各部族が分割され、振り分けられた土地でしたので、現代では地理的には理解しにくいのです。
しかし、ゼブルン、ナフタリの地は、今の地理で表わすなら(私が最初の半年間住んでいたメギド地方の)ハルマゲドンで知られているメギド平野からガリラヤ湖の手前までの土地のようです。
預言では「広く拡がるメギド平野からガリラヤ湖全体、ヨルダン川の西側(今のヨルダン)そこに住む諸国民は神の栄光を見た」とあります。
イスラエルの民は、エルサレムのみで神への祭り事を行い、犠牲と礼拝を捧げていました。
それほどイスラエルの民は、エルサレムに誇りを持ち、神の栄光を感じていました。
しかし、このイザヤ書の預言の成就によって、この時からその周辺のあらゆる地方でも神の栄光を見る事となったのです。
その栄光がイエス様の「カルバリの真理」から表わされていきます。
「カルバリの真理」とは?
聖書には、色々な箇所で羊飼いと羊が出てきます。
ダビデが書いた詩篇の中の23篇には、有名な「主は、私の羊飼い」が記されています。
「羊飼いと羊」に表された関係は、神と私たちとの関係を表す雛型(ひながた)なのです。
創世記4章2節でアベルは、羊を飼うものとなりました。
聖書に記されている全ての「始まり」には、重要な意味が込められています。
(―参考― 「始まり」について
*神は、七日をもって天と地ともろもろの創造を完成された。=天地の「始まり」は、新天新地に照準をおいた預言的意味があります。
*神は、人にいのちの息を吹き込んだ。=人の「始まり」は、アダムから始まる人類のいのちの広がりです。
後にキリストのいのちによる神の子たちの広がりを意味します。
*神のあがないは、「神である主は、皮の衣(単数形)を造り彼らに着せた」に「始まり」、キリストの十字架で完成しました。
創世記から多くの始まりが私たちに表わされています。)
創世記4章4節(新改訳)「アベルは、彼の羊の初子の中から、それも最上のものを、それも自分自身で持ってきた。主は、アベルとその捧げものとに目を留められた。」
主は、アベルが捧げた捧げものに、後に御子イエスキリスト御自身が、罪をあがなうため、傷も染みもない(最上の犠牲の)神の小羊として、自分自身で十字架に捧げた事に重ね合わせ、良しとされたのです。
羊飼いは、羊を神への最上のささげものとして大事に飼育します。怪我や病気をしないように栄養のある草、清い水、外敵からも守られストレスのない環境をつくり、羊を育て上げていきます。
たとえ怪我をしても、傷口にオリーブ油や薬を塗り、病気になれば、薬草を与え、回復させます。
獣や、野犬、外敵が来れば羊飼いは所持している色々な武器で追い払い、羊たちを守ります。
羊飼いの羊に対する働きが[7key truths](七つの鍵の真理)の四番目「カルバリの真理」です。
マタイ4章23節「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆる煩いを治された。」24節、イエスのうわさはシリヤ全土に広まり、様々の病と痛みに苦しむ病人、悪霊に疲れた人、てんかん持ちや中風の者などを皆、御もとに連れてきた。
25節、こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、及びヨルダンの向こう岸から大勢の人々がイエスに付き従った。
全ての人々の一人ひとりに、必要な癒し、救い、解放、満たしに応じる事がイエス様の「カルバリ」のミニストリー(御わざ)でした。
神に喜ばれる捧げものとするために、羊飼いは、羊の病い、怪我を治療し、栄養のある青草、食物で満たし、清らかな水で潤し、健やかに飼育していきます。
カルバリの真理は、私たち一人ひとり、イエスキリストを求める全ての人のすべての必要を満たす祝福の川となり、キリストの十字架から流れ出るのです。
それが、マタイ5章でイエス様が語られた有名な山上の垂訓(八福の教え)となって表わされていきます。
次回から、山上の垂訓(八福の説教)の一つひとつを取り上げ、掘り下げて見ていきましょう。
個人個人に始めから、または、年を経るごとに与えられる賜物として恵みの中で備えられる人と、生まれる前から神の務めに召されている人もいます。
しかし、この山上の垂訓の列挙されている項目は、「神と私たちとの七つの関係」で順を踏まえつつ成長していく教えなのです。
私たちは、この「神と私たちとの七つの関係」の中で整えられていきます。
次回から、マタイの福音書の中の有名な山上の垂訓から私たちが身に付けるべき「神と私たちとの七つの関係」を紹介していこうと思っています。
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2012/01/07(Sat)
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マタイの福音書vol.13
10節「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ!」から、
「神への礼拝」後編
「我が内にある全てのものよ」から
前回に引き続き「神への礼拝」をダビデによって書かれた詩篇103篇1節「我が内にある全てのもの」から見ていきましょう。
皆さんの中で礼拝を上手な音楽、上手な祈り、流暢なスピーチ、メッセージでなければならないと思っている方はいらっしゃいませんか? 確かにその要素も含まれます。
神が求める私たちの礼拝が、「霊とまことの礼拝(ヨハネの福音書4章23~24節)」である事を私たちは承知しています。
以前から述べているように、私たちの魂は、サタンと悪霊たちvsキリストと私たちの戦場です。
誘惑から守られるためには、心の中をキリストの御言葉とキリストとの愛(キリストに愛され、キリストを愛する)の思いでいっぱいにする事です。
砕かれた魂、へりくだった心の中に主は住まわれます。
砕かれた魂の持ち主は、たとえ失敗しても、間違っても(逆ギレではなく心からの言葉で)「これが私の精一杯の能力です。」と失敗を恥ずかしがらず、与えられた魂いっぱいのミニストリーを神に捧げる事が出来るでしょう。
「私は、音楽は苦手だから上手に賛美を歌えない」という人のコメントを聞いたことがあります。
どういう基準で誰が、上手、下手を決めているのでしょうか?
多くは、私たちが、この世の中の常識の中で判断していると思います。
「この世の君」が支配している「この世の常識」に耳を傾けるのか、私たちを「高価で尊い」ものとして造られた神の御声に耳を傾けるのか、二者択一をしなければなりません。
「私は、歌は下手で音痴です。」と言い切る人は、「神は私という不良品をつくられています。」と言っているのと同じですので以後、このような発言は慎みましょう。
これもサタンの策略で、大きい声で賛美できないように神への礼拝者を思いの中で縛っているのです。
「私のうちにある全てのもの」とは、私たちの長所を生かした上手に捧げる務め(ミニストリー)だけではなく、私たちの短所、失敗、弱点も全て含めて神の前に開示し、神への礼拝に捧げていく事なのです。
第二コリント12章9節「私の恵みは、あなたに十分である。と言うのは、私の力は、弱さの内に完全に現われるからである。」
そして、ローマ8章28節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の為には、神が全ての事を働かせて益として下さる事を、私たちは知っています。」
私たちが弱い時、失敗した時、そこに神の力が完全に現われるならば、与えられている賜物、持ち前の器用さ、能力などでうまくいった以上に、私たちの失敗した弱さの中に現された神の力の方が比較にならない程、優れているのです。
皆さんも体験したことがあると思いますが、失敗した時は、心がつらい、また痛苦しいのではないでしょうか。
この時の、魂は砕かれている貴重な瞬間なのです。
失敗した中に神は臨在してその失敗を補い、その油注ぎの力で癒され、成功に変えてくださいます。
(参考=聖書で油の役割は①任職の時②病に塗る薬③食品の一つとして用いられました。)
私たち礼拝者たちは聖霊様のただの通り道、管にすぎません。
水は、高いところから低いところへ流れるように、神の臨在、油注ぎもへりくだった魂(心)へ、低いところ、低いところへと流れ込んでいくのです。
主の油注ぎが私たちに来た時に、一人一人がその油の導きに身を任せ、自由なワーシップを導いてもらうのと同時に、全ての奏楽者もその周りの旋律の中に身を任せ委ねる時、会衆の一人ひとりに安息、安らぎ、体と心のいやし、様々な霊からの解放、ある人には悔い改め、ある人には感謝と賛美、聖霊の喜び、聖霊のバプテスマ等が与えられます。
砕けた魂(心)の楽器奏者が奏でたメロディー、ハーモニー、音階、リズム、それらの調和の中に、主は、御座を設けられ、そこから主が、様々なミニストリーを解き放って、神の安息をその礼拝の中で体験させてくださいます。(「あなたは、聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」詩篇22篇3節)
楽器を神に奏でることができる人は、楽器ができない人の代わりに奏でているだけで、「自分は特別に賜物に恵まれている」と思うのではなく「皆さんのために奉仕させてください。それくらいしか私にはできません。」というような謙虚な仕えるスピリットから臨在は流れ出ていきます。
弦楽器、打楽器、金管楽器、ボーカル(歌声)、聖歌隊、会衆が奏でる音の一つ一つ、さらに感謝、歓喜、祈り、証し、メッセージの声に神が安息の音を奏でてくださいます。
ほとんど完成されプロ的な礼拝者の方々は、卓越した技術を、砕かれている魂から流れ出る油注ぎによって解き放ってください。
それによって天国の音階、旋律を会衆全体に分かち合う事ができるでしょう。
また、音楽に従事していない他の礼拝者たちも同じキリストの体です。
賛美を捧げる、祈る、証しする、預言する、御言葉を語る、読む、そして受け付け、接待する等。
それら全ての礼拝の働きの土台、中心にあるものは「神を愛し、隣人を愛する」事。マタイ22章36~40節。
これが始めに律法を授けた神の本意であり、礼拝の骨幹です。
そして、イエス様が与えた新しい戒め「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」キリストの体(教会)の一つ一つの肢体は、目立たない、軽んじられる部分でもかばいあい、助け合う、愛の共同体だということを肝に銘じましょう。
神の喜ばれる「神への礼拝」は、神の愛の中で、会衆全員「私たちの砕かれた魂(心)」の中に臨在を表わし、私たちが互いに愛し合う中に住まいを設けてくださるのです。
By ナルド・ホームチャーチ
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2012/01/01(Sun)
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マタイの福音書vol.12
10節「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ!」から、
「神への礼拝」前編
前回、「もしひれ伏して私を拝むなら・・・。」マタイ4章9節から引用して、神の御子を自分の下にして礼拝を受けるものとなろうとしていた事を述べていきました。
今回は、「神への礼拝」真の礼拝について、
詩篇103篇1節。「我が魂よ、主をほめよ。
我が内にある全ての者よ、聖なる御名をほめたたえよ。」から前、後編の二回にわけて紹介してまいります。
今回は、前編「我が魂よ、主をほめよ」を見てまいりましょう。
神は、人を造られた時、肉体の中に魂と、その魂の深い所に霊があるように造られました。
それは創世記2章7節。いのちの息「ハイイム(神のいのち)」をその体の中に吹き込まれ、生きた生命(神のような生命、創世記1章26~27節)となりました。
ヘブライ語でいのちの単数形は「ハイ」、複数形となると「ハイイム」となります。
神の「ハイイム」が、人の体の内に吹き込まれ、「人は生きもの(ハイ)となった」のです。
創世記2章7節の情景は、神から複数の「ハイイム」が人に吹き込まれ、単数の「ハイ」が、人の中にとどまって人は生き、溢れ出た複数の「ハイイム」は、光のいのち(ヨハネの福音書1章4~5節)の衣としてアダムの体を覆い、包み込んでいました。
ある日、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べ、神に罪を犯した瞬間から、あふれ出ていたその衣「光のいのち」が消え、いのち(ハイ)だけが、魂の深いところにある霊の中にとどまったのです。
(創世記2章25節に記されている「裸」は、ヘブライ語では「何かに覆われた裸」を意味するアルームの複数形「アルーミム」。3章7節には、「何も覆うものがない裸」を意味するエイロームの複数形で「エイルミム」で表現しているのです。)
それは、人が神に背き、善悪を知る木の実を食べた時に、サタンが、人の魂に、罪の種を植え付けた事による結果です。
それ以降、人は、神からの啓示、御声、御心よりも、自分の欲、思いを中心とした判断をする者へとなってしまいました。
これは、すべて善悪を知る木の実によるもので、自分の中で全てを判断するという罪の性質となってしまったからです。
人の魂は、自分自身を楽しませようとの欲望に流れてしまう傾向にあります。
人の魂は、サタンから数々の巧妙な、誘惑の攻撃の的となり、欲望はその攻撃に、巧みに操られていきます。
しかし、神は、私たちの魂、心の中を、神・キリストで一杯にして、サタンの攻撃から守ろうとされています。
そこで、もう少しサタンについて見てみましょう。
音楽は天国の聖歌隊長であったルシファー(後にサタン)が、神に捧げていたミニストリー、務めでした。
彼は、神に捧げる礼拝を指揮していた御使いたちの中でトップのワーシップリーダーでした。
その「捧げられている盛大な素晴らしい礼拝を自分も受けたい」と高ぶりの思いを持った時、神によって地に落とされたのです。イザヤ14章12~15節。
地に落とされた後の、この世は「この世の君(サタン)」の支配の中にあるため、全ての音楽にたずさわる者たちは、天の音楽を司っていた元天使長、元聖歌隊長(ワーシップリーダー)の管理下、影響下に知らず知らずのうちにおかれるのです。
そこから巧みな賛美、卓越した音楽にたずさわる奉仕者たちは、少なからず高慢になりやすい弱点があります。
礼拝に従事する人が奏でる音楽、歌などに第三者が批判的な感想を述べた時、少しでも「カチン」ときたら要注意です。
批判的な感想や忠告を柔軟に受け止め「もっともです。ご意見ありがとうございます。」と心から反省し、感謝をささげることが出来るようになりたいものです。
魂は、サタンの誘惑の攻撃をもろに受ける私たちの戦場です。
私たちも注意しないと、自分の魂に満足感を覚え、音楽を自由に奏でたり、派手なパフォーマンスに陥ったりする危険性もあります。
確かに賛美は、祈りのミニストリーとは違って、パフォーマンスや、コンサート、イベント的に脚光を浴びる働きとなっていく危険性があるのです。
その魂いっぱいの表現力で奏でている『神への礼拝』のワーシップリードを、サタンが自分の方向に向けるのはわけない事です。
そこで聖書を二箇所開いて見ましょう。
イザヤ57章15節「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖と唱えられる方が、こう仰せられる。『わたしは高く聖なるところに住み、心砕かれてへりくだった人と住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心(魂)を生かすためである。』」
詩篇22篇3節「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとされています。」
主は、この御言葉から私たちに教えてくださっています。
私たちのへりくだった心、砕かれた魂を生かしてくださるお方は、砕かれた人の魂の内に住んでくださいます。
そして、砕かれた魂の持ち主が奏でる賛美、音階の一つ一つの音の中、リズムの中に臨在を表わしてくださるのです。
神は、砕かれた魂(心)に臨在していますから、そこから捧げられている賛美の全てを喜んで受け取ってくださいます。
その時、歌ったダビデの歌が、
詩篇103篇1節「我が魂よ、主をほめよ。
我が内にある全ての者よ、聖なる御名をほめたたえよ。」なのです。
重要なポイントですから繰り返しますが、砕かれた魂(心)の礼拝者による賛美礼拝は神が喜ばれます。
砕かれた魂の中に臨在される主が、礼拝者たちの奏でる旋律から、流れ出ていきます。
神の臨在は、砕かれた魂から砕かれた魂へと高い所から低いところへ流れ行き、伝わり、広がっていくのです。
これは音楽にたずさわる者だけではありません。
神は、礼拝を捧げる全ての者が「真の礼拝者」となるためにへりくだり、砕かれた魂の礼拝者となる事を求められています。
神は、地上に住まいを設けるために、「神への礼拝」を捧げる人々が、砕かれた魂となって、神の住まいを築く事を望んでおられます。
「我が魂よ、主をほめよ」
私たちが、神に喜ばれる砕かれた魂、主が住まわれるへりくだった心となって、その魂いっぱいを神に捧げる事をダビデは歌ったのです。
私たち一人ひとりが砕かれた魂となり、より一層、神を愛し神に仕え、隣人を愛し仕え、神の喜ばれる礼拝を捧げてまいりましょう。
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2011/12/24(Sat)
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マタイの福音書vol.11 「礼拝」
4章8節、悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての国々と、その栄華を見せて
言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
今回、礼拝に焦点を当ててこの箇所を見ていきましょう。
エゼキエル28章全体とイザヤ14章12~15節にさかのぼって見ていく必要があります。
名前がサタンとなる前のルシファー(Lucifer)を見ていきましょう。
ルシファー(Lucifer)は、暁の子、明けの明星と呼ばれていました。
もう一人、輝く明けの明星と自己紹介している方がいます。
黙示録22章16節でのイエス様ご自身です。
神の聖なる山に臨在を現していた「油注がれた守護のケルブ(イエス様)」と共に歩んでいたルシファーは、天の御使いNo.1の存在でした。エゼキエル28章14節
その歩み、行いは守護のケルブと同様、完全でした(エゼキエル28章15節)が、彼の心は自分の美しさに高ぶり、その輝きの高ぶりにより知恵を腐らせた。(エゼキエル28章17節)とあります。
この高ぶりをイザヤ14章13~14節から見ていきましょう。
13節 『私は天に昇ろう。
I will ascend into heaven,
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
I will exalt My throne above the stars of God:
北の果てにある会合の山に座ろう。
I will sit also upon the mount of the north:
14節 密雲の頂に昇り、
I will ascend above the heights of the clouds ;
いと高き方のようになろう。』
I will be like the Most High.
(英訳はKing James Version)
ここのようにルシファーの言葉には、五つのI willが入っています。
このI willは、強い意志が込められた言葉なのです。
「五つの高ぶり」と言い換える事が出来るでしょう。
ルシファーは守護ケルブと共に歩み、全ったき者の典型で、美の極み(エゼキエル28章12節)でした。
天使の中では最高の栄誉を持っていたルシファーは、守護ケルブと共に行動する中で決定的な違いを感じていました。
守護ケレブ(イエス様)は、いにしえの初めから神の子であり、とこしえに至るまで礼拝を受ける対象なのに対し、ルシファー自身は無数の天の御使いたちのNo.1であったにもかかわらず、これからもその立場は永遠に変わることなく、礼拝を指揮し捧げる者である事に不満を感じ、うっせきした思いが爆発してイザヤ14章13~14節の言葉となっていったのです。
この五つの高ぶり(5 I will)により地に落とされたルシファーは、エデンの園の中でアダムに預言的な名前を付けられました。
聖書の元となる言葉「輝く者(ナハフ)」から変化した「蛇(ナハシュ)」と名付けました。
後に神から呪いの宣告を受け(創世記3章14節)地を這うものとなり、地上の「この世の君」「悪の根源の悪魔」そして、「サタン=死の使い、敵」と名付けられていきました。
天で礼拝を受ける対象になる事ができず、地に落とされたルシファー(サタン)は、地上でこの世の君の王国を築きあげたのです。
現在、世界中で、数々の宗教が作られ様々な神が祭られています。
様々な天体、動物、被造物がその対象となっていますが、偶像の原型は蛇、竜であるといわれています。
この世の高い次元にイエス様を連れて行き、世界中であがめられている「この世の君」の礼拝情景、そして栄華、繁栄を見せつけました。
天にいた時は、イエス様の直近で、イエス様をひれ伏して礼拝していた立場から「(この世においては)私にひれ伏して私を拝みなさい。(天で持っていた栄華と繁栄同様に)あなたにこの地上の繁栄もあげましょう。」と偽りの条件を出してきました。
サタンの発言は、全て偽り、嘘です。
私たちの魂に向かって、もっともらしい事を列挙し納得を促します。
何と言っても「この世の君」。
私たち一人一人の一番弱い所を知っていて、私たちが引かれる誘惑を次から次にもってきます。
またサタンは、この世の常識で、私たちを都合よく操ります。
「私は大丈夫だ」と言う人も100%御言葉を蓄え、御言葉の中を歩んでいる人以外は惑わされます。
私はどうかと尋ねられると「???」。
私の内にあるキリストにしがみ付くしかありません。
サタンに打ち勝つお方はイエス様しかおられないからです。
イエス様への思いでいっぱいになり、満たされ、霊の中におられるイエス様からの言葉が響いた時に、はじめて「引き下がれサタン」とサタンを支配する力が解き放たれるのです。
次回は、別の角度から「神への礼拝」を見ていきましょう。
*注意
神との中途半端な交わり、満たしだけでサタンや悪霊に対処すると魂、体に被害を受けることにもなりかねません。
軽はずみに悪霊の追い出しは避けたほうがいいでしょう。
イエス様も(祈りのボルテージが上がる)断食の祈り(マタイ17章21節)をもって対応するよう助言しています。
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2011/12/17(Sat)
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マタイの福音書vol.10
「神を試みてはならない」
さて今回は、イエス様の語った「神を試みてはならない」を見ていきます。
イエス様は、この言葉でサタンを退けました。
私たちは教会の中で、また個人の祈りの中で神を試みてはいませんか?
祈りの課題をあげて「神は、○○の課題を成就しました。」そして「△△の課題はこれからさらに祈り続けます。・・・」など。
祈りの結果と祈りの御言葉(マタイ7章7節、マルコ11章24節他)をもって「主よ、御言葉どおり実現してください。」と私も神を試みているような祈りをした事がよくあり、気がついた時ごとに反省しています。
また、祈りの中で聖書の御言葉を唱えつつ、神の御心を確信できるまで祈りこむこともありました。
そこで最近教えられたことは、その祈っている事柄は、私の魂、言い分けを正当化させ、「自分は正しい祈りをしている」と自己を満足させるための課題と祈りとなっているのではないか。
いくら聖書からその祈りの課題にあった御言葉を探しあてたとしても、神の御心と、私の心の中にある思いとではズレがあることを教えられる事もあります。
いくら正しいと思っていても私たちの思いは、魂(心)、肉なる思いの中で考え、判断しているのです。
これはエデンの園の中にある善悪を知る木の実の(魂の)世界なのです。
「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」これは、善悪を知る木の実から漂っていて、そして食べた者の魂の中から生じてくる思いなのです。
魂は、知性、感情、意思で形成されています。
知性は「賢くする」、感情は「目に慕わしい」、意思は「食べるという行動」に表されていきます。
私は祈る時、霊の思い(御心)と魂の思い(善悪の思い)を判別し吟味して祈るように心がけています。
神の御心は、始めの内は、私自身の不利益になっていても、全体では益となり、後に私自身に利益が及ぶのです。
神の働き、思いは、私たち人間には及びもつきません。
この事は知っておきましょう。
私たちが祈った、神の御心にそった祈りは、決して地に落ちることは無く、どんな小さな祈り、些細な祈りであっても全て実現します。
次に善悪の木の実。
「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」アダムとエバから始まり全ての人類の思いは、自分自身を喜ばせ満足させる事から始まり、それは、世界の人数分の主義主張、思い、考えになるのです。
ですから人の力では全ての人を同じように満足させることは出来ません。
一つ例をあげれば、政治の世界です。
これは、善悪の木の実の縮図です。主義主張の中で、いくつかの政党に別れ、その一つ一つの政党の中でも分派、グループがあります。
そのグループの中でも論議が交わされています。
また、国と国、民族と民族、部族と部族の間でも意見の隔たりがとても多いのです。
善悪の木の実から影響を受けたこの世界では、中々一致を見い出す事ができません。
一致は神の御心の中を歩む者たちの中に、部族、民族、国家を超えて訪れます。
肌の色や、文明、文化の違いは神の御心には関係ありません。
神の御心にそった祈りは、キリストの体の必要事項が示された祈りを導かれる事なのです。
キリストの体は国境を越えてつながっています。
体には見える部分だけではなく隠れた部分もあります。
体には目の届かない背中もあれば、足の裏、頭のてっぺんもあります。そして皮膚の内部や内臓部分もあります。
神に示された時、(キリストの体のために)その課題を祈る事、そのような御心の祈りをするように心がけています。
人が病に伏している時の癒しの祈り、色々な問題、悩み、苦しみの為の解放の祈り、内におられるキリストの悲しみを共有し、キリストの体のために祈るとき「神の栄光を見る」事、それを心待ちにしています。
また、祈りは霊の呼吸と言われています。
身近なところでは幼児がお父さんお母さんに話しかける事により少しずつ大人の会話になっていきます。
会話を成長させる為には、知性(母国語だけ)の祈りだけではなく「御霊の祈り(エペソ6章18節)」が不可欠になります。
(「御霊の祈り」はマタイの福音書の別の章の中で説明します。)
いつもイエス様は、私たちの心に語りかけているのですが、私たちの魂、心は別の方向に興味を持ったり、引き付けられたりして、自分の思いが邪魔をし、その声が届いてないだけなのです。
すでに、実践されている方は多いと思いますが、一方的な祈りになりがちな私たちの祈りから、心のアンテナを私たちの霊の中におられるイエス様に向けて、霊の耳を御声に傾ける時も合わせ持つようにしてはいかがでしょうか。
細き御声、または御言葉の閃きをもって教え、ご意思を伝えてくださる事でしょう。
次回は、マタイの福音書4章8~11節から、礼拝について述べたいと思っています。
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2011/12/10(Sat)
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マタイの福音書vol.09
すると悪魔は、イエスを聖なる都(エルサレム)に連れて行き(世界的に有名なイスラエルが誇る)神殿の頂きに立たせて言った「あなたが神の子なら、下に身を投げて御覧なさい。『神は御使いたちに命じて、その手であなたを支えさせあなたの足が石に打ちあたる事のないようにされる』と書いてありますから」マタイ4章5~6節。
今回のサタンの誘惑は、イエス様の魂(心)の中にある自己顕示欲(脚光を浴び多くの人から良く見られたい)という欲望を試してきました。
神の子イエスキリストは、天においてその無数の軍勢の将でもあり、一声かければ十二軍団(一個師団はギリシャ語では1レギオン、6000人編成でその十二の師団)よりも多い天の使いたちを遣わす事がおできになるお方です。マタイ26章53節。
皆さんも、マジシャンがよく行なうイリュージョントリックを知っていると思います。
マジシャンは、小さいものから大掛かりなものまでのトリックで、多くの人々の目を釘付けにし、惑わして、そのわざで魅了します。
モーセのしるしに対してエジプトの魔術師(マジシャン)たちもマジック、トリックまたは、悪霊からのしるしをもって対抗しました。
サタンはイエス様を荒野から都の神殿の頂に移し、多くの人々に注目させ、神の力を見せつけさせ、イスラエル中のユダヤ人たちが集まる所において、自己顕示欲をかき立てて、それを最高点にまで高揚させようと促したのです。
イエス様は、飛び降りることなど、わけ無くできましたが降りませんでした。
しびれを切らしたサタンは、御言葉(詩篇91篇11~12節)を用いて「天使たちがその足をささえるようにされる」と言って飛び降りるよう決断を促しました。
詩篇91篇は、全体の文脈から読むと「いと高き方の隠れ場に住むもの、全能者の陰に宿る者」から始まります。
ここに、天の父が天使たちに命じるための条件が記されています。
私たちが、いと高き方の中に隠され守られた所に住んでいる時、御心の中にいて神の御心を行なう者に対して、天の父は天使たちに命じるのです。
神殿の上から飛び降りる場面は、誰が設定したのでしょうか?
父ですか?
神殿にはサタンが連れて来ました。
すなわち天の父の御心ではなかったのです。
また、サタンは、もう一つ大きな罪を犯していました。
御言葉の一部「あなたが歩む全ての道で」を削除しています。
それだけで文の受け取り方が変わってきます。
サタンは、もともと無数の天使たちの中で、イエス様の一番身近に仕えていたものであったため、イエス様が、石をパンに変える事も、また神殿頂上から飛び降りられること位知っていました。
しかし、サタンは、イエス様の歩まれる道を、サタンの誘惑の言葉に耳を傾けさせ、神の御言葉、神の御心から焦点をずらそうと働きかけました。
イエス様は神の定めを知っています。
ご自身がその定めをつくられたからです。
神の定めは、神の御心です。
その御心が形となったのが「幕屋」であり「律法」であり、肉体となられたのが「イエスキリスト」御自身だったのです。
サタンは、イエス様を神殿の頂上に連れて行きました。
神の御心は神殿の中に臨在する事ですが、その頂上に君臨する事ではありませんでした。
あるキリスト教会では、『「牧師は油注がれた者」、その油注がれた者に触れてはいけない。』と指導している人たちがいます。
そして彼らは「この触れてはいけない」との意味を「批判すると神の呪いによって打たれる」と教えているのです。
「神が遣わされたものは神の言葉を語る。神は限りなく聖霊を給うからである」教会の中で牧師は、神にいと近い存在であるのが理想ですが、さも同等でもあるかのようにこの御言葉をもって教会メンバーに指導しているのです。
それらの教会は、頂点に立った教会指導者が、そこから飛び降りても信者さんたちが支えるようにしっかりと指導しています。
ここでは「神殿(教会)の頂上」に立つことは御心ではない事も表わされた啓示の一つです。
私も小さいながら新約の群れの家の教会(ナルド・ホームチャーチ)において、上に立つのではなく、神殿の中に臨在されておられる主の中に、メンバー共に、主の陰に住み続けるよう、目と心を注いで行こうと思っています。
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2011/12/03(Sat)
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マタイの福音書vol.08『サタンからの誘惑』
マタイ4章。「三つの誘惑」その一。
水のバプテスマを受け、父の御声、聖霊の降臨を受けられ三十年ぶりの三位一体に戻られたイエス様は、悪魔の三つの誘惑を受けられました。
最初の誘惑は、四十日四十夜の断食の後の事でした。
今回は、断食について記すことにします。
四十日四十夜の断食を体験した人は、モーセが四十日の一回目の断食を終えて、二日後に二回目の断食をした事と、アハブ王に命を追われていたエリヤの二人だけしか聖書には記載されていません。
日本の人口比で1%に満たないクリスチャン人口に対して、隣の国「韓国」では、その国民の30%の人々がクリスチャンだと聞きます。
韓国についてご存知の方は多いと思いますが、韓国は戦前から民族の分断や色々な問題から、朝鮮民族の中に力強いハングリー的な祈りがおこり、そこから神が働いている特別な地域だと思われます。
力強い祈りを代表するのは何といっても徹夜と断食の祈りです。
私は、三日も断食すれば死にそうにつらいのですが、おとなり韓国の国の中には、いくつも断食教会、断食祈祷院、断食施設があって、彼等、の多くは一週間以上の断食を平気で行なっています。
中には三週間~一ヶ月、また四十日断食を行なった人々もたくさんいらっしゃると聞いています。
水だけを飲む断食、サプリのみは飲用する場合、朝食抜き、朝昼抜きなど色々な断食の方法があります。
断食を行なうに際しては、十分な知識をもった指導員のもとに進めていってください。
また、体(胃腸の働き)を戻すために断食した日数と同じ日数が必要となってきます。
長期間の断食であるならば、下剤で大腸内をきれいに出してしまうための細かい指導も必要です。
断食を始めるにあたり、大腸に便が残ったまま断食を進めると、その残留の便は、日に日に水分がなくなり、石のように硬くなり直腸付近で栓となって摘出手術をしなければならない程の一大事となることもあるそうです。
もし断食を行なう人は1~2日位なら戻しは必要ないでしょうが、一週間~十日なら断食明けのはじめの食事は薄いおかゆから、そして焦らずに徐々におかゆの水分を少なくして行き、一週間~十日かけて体を戻すよう心がけてください。
長期間の断食祈祷を希望するなら、断食期間のスケジュールを把握し、食事摂取方法を管理アドバイスしてくれる祈祷院専属の牧師、アドバイザーなどのスタッフによる指導が必要です。
韓国で三週間の断食直後に普通食を摂って死亡した例があると聞いた事があります。
断食が成功するか否かには、この断食後の戻しが重要なポイントとなります。
さて、マタイ4章のイエス様の断食を見ていきましょう。
この世の君サタンは、この世で人間を縛っている三つの誘惑をイエス様の魂に向けて攻撃して来ました。
イエス様は、四十日四十夜断食をした後で空腹を覚えられた。
試みるものがきて「この石をパンになるように命じなさい。」と誘惑しました。
先ほども韓国で、三週間の断食の直後に普通に食事を摂って死亡した例を述べましたが、普通の人間は、四十日四十夜断食の直後、パンなどを普通に食べると体を壊し、最悪、死亡する恐れがあります。
サタンは人を欺くもの、殺すものともいわれていますが、ここでも
目障りな神の子イエス様をあわよくば殺そうとしていたのでしょう。
イエス様は神の御子。イエス様は命じて石をパンに変えることもできました。
そのパンもマナのような食物に変えることができました。
しかし、イエス様は、問題の焦点を、奇跡を起こすことではなく、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という御言葉を重んじ、最初の誘惑に打ち勝つための聖書の御言葉を私たちに啓示されました。
イエス様は、『いのちのパン』なるお方です。(ヨハネの福音書vol.13)
そのお方に向かって、向こう見ずなサタンは誘惑をかけてきました。
聖書の始め、創世記2章で最初の人、アダムを造り、彼と交わっていた時に、イエス様はアダムに対していのちの言葉をいつも語りかけ、アダムはそのいのちの言葉により生かされていました。
出エジプト34章28~35節でモーセに対しても、顔と顔を合わせ、神が語った言葉でモーセは生かされました。
第Ⅰ列王19章にエリヤに現われた主の使い(イエス様)は、エリヤに、四十日四十夜行き巡る力を与えました。
彼らに与えたいのちのパン、御言葉であられるお方は、今度は御自身が与えた『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』という御言葉を私たちに提供し食べさせる事、それによって神と一体となって生きる事を私たちに啓示すると共に、サタンを切り捨てました。
毎日聖書を通読することは大切です。
私たちの体は、一食抜くだけでも空腹感を感じます。
私たちが一日三食する時間とほぼ同じ時間を、聖書に向かってみてはいかがでしょう。
朝、昼、夕と10分ずつ。10分で1~2章ほど読めると思います。
私たちの魂の中に、御言葉なるお方を蓄える事をサタンはいやがります。
私たちの心の中を御言葉なるイエス様でいっぱいにして、サタンを遠くに退けましょう。
始めは読んで分からない箇所ばかりでも、御言葉が御言葉を解き明かしてくださる時がやってきます。
心の中に蓄えた一つ一つの御言葉が、何度も何度も私たちの必要な時に示され、思い起こされ、私たちを助け、救い、大きな人生のヒント、次の一歩、足のともし火(「あなたの御言葉は私の足のともし火。私の道の光です」詩篇109編105節)となってくださいます。
By ナルド・ホームチャーチ
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2011/11/25(Fri)
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マタイの福音書vol.07
Το βάπτισμα
バプテスマについて
三回にわたりバプテスマのヨハネについて記しました。
キリスト教会においてバプテスマの理解、認識は多くありますが、私たち(7key truthsを土台としている)新約の群れのグループでは、それら全ての主張を理解し、いずれも肯定します。
私たちも、イエスキリストを信じた時に、罪を悔い改め、水の洗い(ヘブル6章2節、御言葉を受け入れ清められた証し)を受けるために『水のバプテスマ』を受けます。
また、求める者(ヨハネ7章37~39節)には『聖霊のバプテスマ(マルコ1章8節、使徒行伝2章1~4節)』を受ける事も信じ、私も、私の多くの仲間も受けています。
もうひとつ、私たちが受け入れているバプテスマがあります。
それは、多くの教会で言われている『義化、聖化、栄化』と教えられている中の「義化=義認」の箇所にあらわされています。
罪を犯し、滅びに向かっていた私たちが、イエスキリストを信じ心に迎え入れた時に、その滅びに向かっていた体が「永遠のいのち」の中に移されます。イエスキリストを信じ受け入れたその瞬間がキリストの義(永遠のいのち)の中にバプテスマされる時なのです。
それを私たちは『キリストのバプテスマ』ともいい、そのバプテスマ三つともを受け入れ、三重のバプテスマといっています。
キリストを受け入れたとき、私たちの心の中心の奥深い『霊』と言われているところにイエス様は宿ってくださいます。
それと同時に、私たちはキリストの義(永遠のいのち)の中に入れられ、どんな事があっても、いつまでも神と共に生きるものとされました。
ここには人間的な働きかけ、努力は一切ありません。
私たちは、神によってイエスキリストを信じる事が出来るようになりました。
これが、イエスキリストを信じた時にあたえられる『キリストのバプテスマ』です。
次に、イエス様はバプテスマのヨハネのもとに来て「水のバプテスマ」を受けました。
そこで語られたイエス様の言葉「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しい事を実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」マタイ3章15節
とおっしゃいました。イエスキリストを信じ悔い改めた者たちは、今度はクリスチャンとしてのはじまりとして、正しい事を行なう事の見本でもありました。
最初のキリストのバプテスマは、神の一方的な働きかけにより、私たちの救いがスタートしました。
水のバプテスマは、私たちがクリスチャンのはじまりとして正しい行いをあらわす方法、手段なのです。
聖霊のバプテスマは、私たちが神の為にミニストリーを行なう為の助けをしてくださいます。
私たちは霊・魂・体でつくられていて、イエスキリストを信じていなかった時は、霊の中は空っぽ状態でした、イエス様を信じた時、イエスキリストは霊の中に入ってきたのです。
魂は、知性、感情、意思の三つで構成されています。
イエス様を信じ、助け主なる聖霊を求めた時、聖霊のバプテスマが与えられます。
その時のしるしは、新しい言葉としてあらわされます。
多くの教会の教えの中で異言は不信者のしるしを強調し教えられています。Ⅰコリント14章22節。
異言は不信者であるならパウロは、多くの異言を語る不信者だったという事(18~19節)になるのでしょうか?
聖書の訳そのものが、この箇所を分かりにくくしているのではないでしょうか。
私は、ここの「不信者としてのしるし」をこの文脈の中で説明すると、「神のミニストリーをする信者のはじめのしるし」と読みとっています。
このしるしからはじまり、預言や神の様々な奇跡、癒し、力あるわざ、知識、知恵、霊を見分ける賜物、などと言った数々のミニストリーが解き放たれていく事になっていくのです。
その中でも、異言は、今でも多くの教会のつまずきの石でもあるようです。
今回紹介いたしましたバプテスマについて、それは、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4章5節)の中から、三位一体の主も一つであるように、一つのバプテスマにも三つの段階(三重のバプテスマ)があるという私たちが主張する説を知っていただけたら感謝です。
さて、次回からはマタイの福音書4章、イエス様が受けられた三つの誘惑を少しずつ紹介してまいります。
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2011/11/19(Sat)
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マタイの福音書vol.06
מדבר
荒野にて…
今回は、7key truthsの中の七つの関係、その三番目。
「神の権威と私たちとの関係・服従のテスト」から、バプテスマのヨハネに焦点を当てて見て行きます。
ヨハネは、神に服従を示され、荒野で宣教をはじめました。
誰もいない荒野(砂漠)に向かい、叫び語る行為は、誰しも勇気がいると思います。
発声練習や、メッセージ、司会の練習のため、人気のない所で語る事は出来ますが、目標もなく、反応も無い、いつまで続ければいいのかも分からず行なう事は、精神状態が正常に保たれないでしょう。
バプテスマのヨハネは、神の御声に服従し続けました。
多くの人々は、彼の行動を見て気がふれているおかしな男としか思わなかったでしょう。
らくだの毛衣を着て、食べているものは、いなごと蜂蜜。
荒野に向かって叫び、人を見かけたら「悔い改めよ!神の国は近づいた!」と大声で宣教していたからです。
ある時、通りがかった一行の一人が自分の罪を示され悔い改めて、彼からバプテスマを受けた事から始まり、一人、また一人とヨハネのもとにくるようになり、噂が広まって、エルサレム、ユダヤ、イスラエルそして各地方から人々が続々と荒野に集まってきました。
前回も述べましたが、一部の人は自分の罪深さから悔い改め、救われる為にバプテスマのヨハネのもとにやって来たのですが、噂が噂を呼び、多くのイスラエル人たちはローマの圧制からの解放を求め、彼(バプテスマのヨハネ)こそ我々をローマから解放してくれるメシヤかもしれないと思い集まってきました。
神の御声、御言葉に完全服従するときに、神は、その力を表わしてくださるのです。
出エジプト3章5節モーセに現われた主は「あなたの足のくつを脱げ!」と言われ、服従を促しました。
モーセが、主に服した事により、当時世界最大の軍隊を所有するエジプトの、その軍隊を壊滅(出エジプト14章23~28節)させることとなりました。
ヨシュア記5章15節において、主は、ヨシュアに「足のはきものを脱げ!」と服従を促し、ヨシュアは服従しました。
エリコの城壁は、高さといい、幅といい、今の時代でも崩すことは困難なほど頑丈なつくりでありましたが、神の御言葉に服従し、無言でその城壁のまわりを一日一周、六日間回り、七日目には七周まわり、回り終えた時全員が大声を放った時、城壁は崩れ落ちました。
神の御声、御言葉に服従した時に、神の油注ぎがあり、神の力が解き放たれるのです。
同じようにヨハネが、主に服従している時に油そそぎを受け、神からのメッセージを語り、叫び続けると、人々はエルサレムではなく、
荒野に集まってくるようになりました。
神の油注ぎがあるところに、臨在があり、人々は神の臨在を求めて集まってくるのです。
バプテスマのヨハネが、「女から生まれた者の中で、最も偉大であった」と言う表現は、最も神に服従し、最もへりくだった器であった事を意味します。
神の権威との関係では、服従のテストにより、人の中で最も神に服従し、最もへりくだったヨハネが、バプテスマによって、神への道を備えるものとして用いられました。
『神と権威との関係・服従のテスト』から、このバプテスマのヨハネを通して見る事によって、神の権威に服従する時、聖霊の油注ぎ、神の力、スーパーナチュラルが表されることを教えてくださっています。
私たちは、この世の常識を気にし、常識に流される事がよくあります。
また、地方によっても様々なしきたり、風習に振り回されたりします。
神の御言葉を宣べ伝える方法は、この世の常識的方法ではなく、神の常識に従って宣教すべきです。
回りの目を気にして、この世の常識に縛られる事なく、神が、語られる事に忠実に服従して語る。
その時に、神からの油注ぎ、力が与えられ、神の力、スーパーナチュラルが、起こってくるのです。
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2011/11/12(Sat)
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マタイの福音書vol.05
マタイの福音書vol.05
מדבר
荒野にて…
今回は、「7key truths」の中から、三番目「勝利の真理」を見ていきましょう。
バプテスマのヨハネは、神の御声にどこまでも従順な、また服従した預言者でした。
それをイエス様は「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより優れた者はでませんでした。マタイ11章1節」と、証ししたほどの預言者でした。
バプテスマのヨハネは、誰もいない荒野で呼ばわる事を神に命じられ従いました。
前回も紹介したように、旧約聖書イザヤ書40章3節の預言の言葉では砂漠、ヘブライ語では、דברドゥバール=❝nothing❞何もないの意味も含まれています。
この、ヨルダン川から死海に至るまでに広がる何もない地形、空間の中、人影を見る事すらないドバール(何もない)地形において「荒野で呼ばわれ!」との御声に聞き従ったのでした。
彼は心の中に、それまで人として培ってきた常識のかけらも持たず、神の御声、御心に完全服従する、ただそれだけの為に生涯を捧げた人でした。
彼は、荒野からヨルダン川までの地を行きめぐり、人がいなくても呼ばわり、また、人を見かける度に「悔い改めよ!天の御国は近づいた」と毎日、叫び続けました。
らくだの毛衣を着た男が、誰もいない所に向かって叫ぶ姿、そして見知らぬ通りがかりの人に向かって「悔い改めよ!天の御国は近づいた!」と大声で迫ってきたら、私たちはもとより、多くの人は、「この人は、気がふれている。」「関わりを持つと危険だから、近寄よるまい。」と逆に遠ざかる事でしょう。
しかし、その様な人の思い、肉から生じた思いに動じる事も無く、ただ、神の思い、御声を100%流しだしていく中で、聖霊の油注ぎがヨハネに豊かに注がれ、誰もいないはずの荒野に、一人、また一人と集まって来ました。
その噂がエルサレム、ユダヤ、イスラエルの全土、周辺の国々にまで及び、続々と人々が集まるようになってきたのです。
これは、「7key truths」の三番目「勝利の真理」
神の力が流れ出た時に、神の勝利に包まれていくのです。
「7key truths」を、おさらいしていきましょう。
神の定めの真理、幕屋の真理において、神の最大の目的、真理は、『神は、人と共に住む』という事でした。
「インマヌエル」神、我らと共にいます。
「アドナイ・シャマー」神は永遠の王国の中に君臨され、そこに、私たちもおいてくださる。
どこにいても私たちの中に神が住まわれ、また、人が奏でる賛美の上にまでも、住まいを設けてくださるのです。詩篇22編3節
「安息の真理」神と共に住む時に、神の安息が、その人に訪れ、インマヌエルなる神の中で安息に包まれるのです。
神の安息に入る時は、私がこれを行なう、あれを行なうなどといった私たちからの働きかけはありません。
7key truthsの啓示を与えられた故ロバート・ユーイン師には、口癖のように語られていた言葉があります。
「You work and He can’t work. You rest and God can work.」
「あなたが働くと彼(神)は働けない。あなたが安息すると神は働く」
神は、私たちが、胎にいて生まれる前から、年老いて白髪になり、歩けなくなっても担い続けてくださる方なのです。イザヤ46章3~4節
そして、「勝利の真理」。
父の安息の中に入った時に、神が全てのプログラムを計画し、それをスムーズかつ確実に実行してくださいます。
私たちの前に立ちはだかる障害物は、父の安息の中に入る時、神が全て取り除いてくださるのです。
全ての勝利がこの安息から流れ出ていきます。
安息、ヘブライ語の良く使われている言葉に「シャローム」という言葉があります。
イスラエルに入国した時、そこで滞在して会う人、会う人と交わす言葉、イスラエルを出国するまで、一週間滞在するだけでも何百回使うことでしょう。
その意味は平和、安らぎ、安息にはじまり安全、安心、安泰、太平、穏やか、和解、和平、無事、解放、健やか、いやし、幸福、好意、勝利、栄える、償う、救う、払う、返す、捧げる、善、正義、公義、ことごとく、完成、成就、親しい、仕返し、報復、報い、果たす、あいさつ(hello、good-by、greetings)などなど・・・。
驚きですが五十以上もあるようです。
神が、旧約聖書の中で表わした七つのアドナイの中に、士師記6~7章で、ギデオンに表わした主の御名「アドナイ・シャローム」があります。
この「シャローム」は、ホンワカした雰囲気の、受動的な言葉だけではなく、悪の力に攻撃していくような、能動的な言葉でもある事が分かります。
ギデオンに対して、戦いに勝利するための御名「アドナイ・シャローム」としてあらわれ、勝利に導いたのです。
主はすべてのシャロームを司っておられるお方であり、敵のシャロームを取り去り、神の中に安息を持つ者を揺るがないシャロームで満たされます。
私たちが生き行く上での障害とはなんでしょうか?
また望みとはなんでしょうか?
まず、病気にかからない事、病気ならば癒される事。いかなる災いからも守られる事。あらゆる敵、暴力から守られる事。安定した生活が送られる事。長生きする事。等々。まだ沢山あると思います。
父の安息「アドナイ・シャローム」の中にいるなら、父がそれらの敵を排除し、主が勝利され、私たちは、ますます「アドナイ・シャローム」の中で生かされ続ける事になるのです。
シャロームは、私たちを勝利に導く最短距離。
神の臨在から流れ出てくる「神の力」なのです。
さて次回は、「神の私たちとの七つの関係」から「神と権威との関係・服従のテスト」を通して見て行く事にします。
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2011/11/05(Sat)
マタイの福音書vol.04
מדבר
荒野で…
マタイの福音書3章。
ユダヤの荒野で教えを宣べ、バプテスマを授けるヨハネの事柄が書かれています。
今回は、このバプテスマのヨハネのメッセージを描いてまいります。
(次回では、同じくこの箇所で7key truthsの七つの関係の角度から分かち合ってまいります。)
「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」
荒野で呼ばわる声として預言者イザヤによって預言されていました。
当時イスラエルで呼ばれていた天国(Kingdom of heaven)は、天上にある、神の王座がある御国であったのですが、バプテスマのヨハネは、「その王座が地上にやってくる。その時までに、悔い改めて身を整え、神の為に聖別せよ!」と全ての民に向け、メーセージを送りました。
私も路傍伝道の時、人通りの多い、大きい交差点付近でイエス様の事を叫び、証しなどで呼びかけた事を思い出します。
しかし、この時のヨハネは誰もいない荒野で呼ばわりました。
(イザヤ書40章3節の預言の言葉では砂漠、דברドゥバール=何もない、英語ではnothingの意味も含まれています)
私たちの心の思い、常識的判断ではなく、神から命じられた誰もいない所に向かって毎日、毎日叫びました。
また、荒野からヨルダン川までの地を行きめぐり、人がいなくても呼ばわり、また、人を見かける度に「悔い改めよ!天の御国は近づいた」と叫び続けました。
らくだの毛衣を着た男が、誰もいない所に向かって叫び、見知らぬ通りがかりの人に向かって「悔い改めよ!天の御国は近づいた!」と大声で迫ってきたら、私たちはもとより、多くの人は、「この人は、気がふれている。」「関わりを持つと危険だから、近寄らないで、今度は別の道を通ろう。」と逆に遠ざかる事でしょう。
しかし、このヨハネには聖い神の油注ぎが、その声と目の輝きから流れ出て、人々の心をつかみ、引き寄せていったのです。
誰もいないはずの荒野に、一人、また一人と集まって来て、その噂がエルサレム、ユダヤ、イスラエルの全土、周辺の国々にまで及び、続々と人々が集まるようになってきました。
当時人々は、イスラエルの神殿があるエルサレムに、各自(個人)、家族の清め、祭り事のために集まる慣例があったのですが、そこから40kmも離れていない、何もない死海付近からヨルダン川沿いの荒野に続々と集まってきたのです。
この時代、イスラエルの全ての民は、神の御声、神の啓示を求めていました。
その中にパリサイ人たち、サドカイ人たちもいて、悔い改めの水のバプテスマを受けに来ていました。
パリサイ人=律法を厳粛にかつ完璧に行なおうと熱心に活動している宗教家たちです。この中に律法学者の教師たちが多く含まれ、多くはイスラエルの政治の中心<サンヘドリン>の議員たちもいました。
彼らは律法を熱心に行なおうと思っても、なかなか行えないため、律法を補助するための書物を書き加えていました。
その一つに、安息日に歩いても良い距離を定めていました。
また、もし人が父または母に向かって「私からあなたのためにあげられるものは{コルバン}神へのささげものとなりました。」と言えば、父、母には何もしないですむ。
親を敬わなくても罪にならないことを当時も教えていました。マルコ7章11節etc …。
彼らは、聖書にはない、たくさんの宗教的な言い伝えを彼らは作っていました。その中の一つがユダヤの経典となっているタルムードです。
<参考資料、タルムードからの抜粋>
*「タルムードの決定は、生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは、現世のラビに意見を聞き給う」(ラビ・メナヘン、第5書の注解)。
*「ラビの命令は聖書の命令よりも重要である。ラビの命令に従わない者は誰でも死に値し、沸騰している糞の地獄の中でゆでられる懲らしめを受けるだろう」(エルビンErubin 21b)。
他、たくさん資料の提供は出来ますが、これ以上列挙すれば心が重苦しくなりますので、この二つだけにとどめておきます。
このようにユダヤ視線から見た聖書(トラー)はタルムードの次の位に置かれ、ラビを神(ジェホバ)の上に置いています。
サドカイ人=天使の存在、死人のよみがえり、聖書内のしるしを完全否定したグループです。
現在でいうとユダヤ教徒ではあるが信仰心はさほどない、経済界のトップリーダー、経営者たちと言えるでしょう。
現在の世界経済界の多くはユダヤ系の資本といわれています。
名前を出せば皆さんは、多分ご存知の名前ばかりがたくさん出てきます。
また二千年前のイエス様から使徒たちの時代において、イスラエルの国会<サンヘドリン>はこのパリサイ派、サドカイ派二つの勢力グループが、常に拮抗していました。
当時、ローマ帝国からの圧政により、ユダヤの国は、ローマの属州の一つとなる事を余儀なくされ、イスラエルの王を始め、全ての民は、ローマの支配からの解放を求め、メシヤの訪れを待ち望んでいました。
そのため民は、バプテスマのヨハネは、「もしかしたら、私たちが待ち望んでいるメシヤかも知れない」と思い、期待を込めて、バプテスマのヨハネのもとに、続々と集まってきたのです。
「国民全体がバプテスマを受け、一つとなればローマに対して立ち上がり、イスラエルを救ってくださる」と彼らは思っていました。
ヨハネのもとに集まってくる彼らの思い、意味を、ヨハネは見抜いて、その間違いを戒め、パリサイ人に対しては神の御言葉を曲げ、罪を犯し、多くの民にも間違った教えをもって罪を重ねている事を指摘。
サドカイ人に対しては神とその御言葉、その御わざを信じない不信仰の罪を指摘して「仮に、イスラエルが全滅しアブラハムの血筋が途絶えたとしても、神は、石ころからでもアブラハムの子孫をおこす事がお出来になる。切り倒す為の斧は木の根元に置かれている。だから悔い改めよ!」と告げたのでした。
それから、さほど日のたっていないある日の事、イエス様はガリラヤのナザレからバプテスマを受けるためにやってきました。
イエス様は罪がありませんでした。罪のない方はバプテスマを受ける必要があるのでしょうか?
しかし、イエス様は「すべて正しい事を実行するのはわたしたちにふさわしい事です。」と語り、ヨハネからバプテスマを受けられました。
なぜなら、イエス様は、その時からすでに十字架を見つめ、全世界の人々の罪を身に負う事が、前提であったからです。
ヨハネも「見よ!世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネの福音書1章29節)と叫び、イエス様を紹介しました。
理由の二つ目は、イザヤ預言書40章3節「主の道を用意し、主の通られる道を真っ直ぐにせよ。」とあるように、まず最初に、イエス様が父へ至る道を用意し、真っ直ぐにする為にバプテスマを受ける必要があったのです。
ヨハネの福音書14章6節「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、父の御もとにくることはできません。」とあるように、道であるイエス様を通してでなければ父の御もとに行く事は出来ないのです。
そのため、イエス様は、自らバプテスマを受け、父へ通ずる道をつくったのです。
バプテスマを受け、水から上がった時、聖霊が鳩のようにイエス様に降り、父の声により「これは、わたしの愛する子、わたしは、これを喜ぶ。」と仰せられ三位一体として表わされた箇所となりました。
このヨハネに示された水のバプテスマは、天の父に至る真理の道であったのです。
イエス様が模範の先頭にあり、私たちもそれに習って、罪を悔い改め、イエス様は、私たちを罪から救う、救い主として信じ、水のバプテスマを受け、天の父のみもとへ入れられる者へとなっていくのです。
信じてバプテスマを受ける者は救われるからです。
次回は、<七つの関係>から見たバプテスマのヨハネに焦点をあてて見る事にしましょう
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2011/10/29(Sat)
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マタイの福音書vol.03
ממצרים
エジプトから…続編。
『7 key truths(七つの鍵の真理)』目線
『神との七つの関係』目線
今回は、ちょっと角度を変えて、神的目線からこのマタイ2章を見ていきましょう。
第二のメッセージは、この二章全体を見て、赤子イエスを連れて、父(天の父からの御告げによりヨセフ)がエジプトへ渡り、時がきて父によりイスラエルに戻り、ナザレへと移り住みました。
ここの章で、赤子イエスは、神の安息の真理の中におかれていました。
むしろ、いにしえの昔、全てのはじまりから、御子は父の懐にいて、インマヌエルがそこからスタートしました。
神は、人を造りアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ(後のイスラエル)、そしてモーセを通して全イスラエルの民と共に住む「インマヌエル」として表わし、そのインマヌエルなる神が肉の体(幕屋)をもってこの世に生まれました。
インマヌエルの中に神の安息があり、また、神の安息は、インマヌエルから表わされます。
さらに、イエスキリストは、生まれた時からエジプトへ下り、ナザレに移り住み、三十歳までナザレで両親に仕え、三年半の公生涯の律法学者たちの圧力の中、十字架前の受難週、父が御顔を背けている十字架の苦しみの中、そして死に至るまでの33年と半年の生涯、父の安息の中にいたのです。
また、次なるメッセージは、神の七つの関係からの視線です。
この二章は、ヨセフ、マリヤ、赤子イエスにエジプトを通され、そこから救い出されるための分離のテストであり、神との関係の中において通される二番目、<世(環境)との関係>なのです。
エジプトは何不自由なく裕福な生活を送り、魂を満足させる日々を過ごせる国でした。
しかし、彼らは魂を楽しませる罪の世界から分離され、神に従い生きる生活へと変えられなければなりませんでした。
旧約聖書の中に出てくる「聖なる所(カドシュ)」または、「聖」は、英語では❝Holy❞ヘブライ語では「コーデシュ」と言い、清いだけではなく「分けられた、分離された、聖別された」の意味があります。
ここで時が満ち、ヨセフとマリヤは、神の清い御言葉の光に照らされ、罪、汚れを認識し、神に向い、イスラエルに戻っていく事になっていきます。
19~20節。夢による御言葉の光によってヨセフは、欲と罪、不義から分離され、起きてエジプトを立ちイスラエルの地へ入りました。
23節。ヨセフたちはナザレへと移り住み、低く見られていた人種、部族ある「ナザレ人」としてイエス様は、イスラエルの中で、また、両親の中で第三番目の関係である<神の権威との関係>服従のテストへと進んでいくのです。
このように、たくさんのメッセージが込められていた二章ですが、一章に表わされていた『インマヌエル』なる神は、エジプトへ行くにも、どこへ行くにも、いつも共におられました。
キリストを信じた時に、キリストは、私たちの中に幕屋となって宿ってくださり、また、私たちもキリストの幕屋に入れられ、住まわせてくださるのです。
そして、キリストの御言葉の光「コーデシュ」に照らされる事によって、私たちは、この世の欲と、罪から分離され、聖別されていくのです。
キリストは、私たちが、気がつかないだけで、ひと時も離れないお方である事を知ってください。
また、純粋な神の御言葉(聖書)に関わりを持ち続けることは、自覚がなくとも清められているのです。
これによって、信じる全ての者の内におられる主・イエスキリストから知らず知らずの内に、私たちは影響を受けているのです。
最後に詩篇23篇を読み、神の臨在を確かめてください。
1節主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2節主は私を、緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。
3節主は私の魂を生き返らせ、御名の為に、私を義の道に導かれます。
4節たとい、死の陰の谷を歩く事があっても、私は災いを恐れません。あなたが、私と共におられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。
5節私の敵の前で、あなたは私に食事(臨在、安息、勝利、救い、全てを治め支配する御言葉のご馳走)をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は溢れています。
6節まことに、私のいのちの日の限り、慈しみと、恵みとが、私を追ってくるでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
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